アレン・ギンズバーグ

 卵が先か鶏が先かは、生命科学のなかで永遠に答えの出ない命題なのだという。では、歌というものを考えるに、メロディーが先か言葉が先かという問い掛けはどうだろう。現代の歌環境ではなく、あくまでも古代の、人類がマンモスやムースを追い掛けて大陸に散っていた頃の歌謡の勃興として。 
 わかりやすい話ではあるが、ならば一般の人々にその素養はなかったのだろうかと考えてしまう。恋に臨む鳥や虫がメロディーを奏でだすように、宇宙の律動はあらゆる命に歌を与えたのではないか。呪術者ならずとも、生命を得たこと、そしてその春や夏の時期には個人として誰もが歌いたくなったのではないか。では、それはメロディーが核であったのか? それとも言葉、たとえば「好き」というひとことからの精気の放出であったのか?
 
 ここにひとつ面白い例がある。ビートニク詩人である。彼ら、ヒッピー、60年代文化という流れのなかで今ボクらが触れているポップスの芽、いや、そのすべてが育まれたのなら、初期のビートニクたちこそ、ビートルズと並ぶ現代歌謡のアダムとイブであったと言えるかもしれない。なかでも世界史に残りそうな三人のビートニクアレン・ギンズバーグウイリアム・バロウズ、そしてジャック・ケルアックである。
 ビートニクとは何か? 簡単に言ってしまえば、人はこうあるべきだという道徳、あるいは習慣の下で生きる保守派(スクエアという)に対し、こうあるべきだというものは何もない、裸の肉体と裸の感性があるだけなのだという主張を持ち、それを言葉、詩の朗読や小説によって叩き付けていった表現者たちである。反スクエアとなるのだから、彼らは反戦運動の旗手にもなれば、ドラッグの海を広げる役割をも果たした。
 ビートニクもまたアルチュール・ランボーあたりから影響を受けているのでロックなるものの開祖と規定するのは実は難しいのだが、しかし「詩は朗読するものであるし、聞かれるものだ」と、特にアレン・ギンズバーグが胸を張ったことが大きかった。
 これはなにも新しいことではなく、詩とはもともとそういうものなのだ。音楽を内包していた。西洋詩が今のライムにいたるまで韻を踏むことを大事にしているのは音としての聞こえの良さのためだ。日本の短詩が五七五や五七五七七という自律を持つのも、その正体は歌であったから。ところが明治以降、西洋詩をただ意味だけで日本語に訳してしまったため、詩は意味偏重の難解さのみで学生たちを悩ませることになった。
 
 十数年前、ビートニクの音声が録音されたレコードを手に入れるのは至難の業だった。でも今はYoutubeがある。アレン・ギンズバーグの「Howl」(吠える)の朗読を彼の生前の姿とともにぜひ味わってもらいたい。腹から突き上げてくる声。それでいて大きく包むような、どこかにユーモアさえも宿した声。これが人間の声である。
おそらくは古代の呪術者から現代の詩人へと受け継がれた声。
 さて、面白いのはここから先で、ギンズバーグのステージを追って見ていると、どれだけ彼が歌に憧れていたかがわかる。ポール・マッカートニーがギターを弾き、その横で「Ballad of the 
skeltons」を朗読する際の言葉の踊り出し方を堪能してもらいたい。
 言葉は詩になり、そして歌になる。これがきっとボクら人間の宇宙的な本能なのだ。
 でも、だからといって、最初から歌を歌っている人が先進的であるわけではない。それは根本を忘れた人だ。そうかな、と思うならまず今歌っている歌の歌詞のみをギンズバーグのように朗読してみるといい。それは人の胸を打つだろうか? いや、それほどでも、というなら、どれだけ譜面通りに歌えてもそこに命は宿っていないのだ。
 朗読を勧める。失敗しないようにとアナウンサーが上品に読むような朗読ではなく、内臓から声が湧くようなギンズバーグ風の朗読を勧める。ほら、言葉がいつしか踊りだし、歌の翼を持ちだした。