ジャニス・ジョプリン

 耳にした瞬間に誰の魂にも届くジャニス・ジョプリンの声を、その聞こえ方を、今ここで言葉を駆使して形容する気持ちはない。血を噴くような優しさ。炎のような哀しみ。もちろん言葉はいくらでも並べられるのだが、それはつかみようのない奔流から離れたところでの遊戯でしかないように思われ、書いていて虚しい。
 ジャニス流という言い方が許されるなら、ボクらは生涯ジャニス・ジョプリン以上のブルージーなロックシンガーには出会えないのだろうし、彼女の死後四十年、今もその声に触れることによって見知らぬ精気に包まれる。それはひとつの奇跡であり、人類史の遺産に他ならない。たとえばジャニスの「サマータイム」を聞けることに、ただ感謝の念があればいいのではないかという気がする。
 ありがたいことに今は、Youtubeで生前の彼女のステージを見ることができる。至福の時間であるとともに、CDではわからなかったこと、声そのものではない部分で「!」と気がつくことがある。となればここから先は言葉の出番だ。
 どんなライブ録画でもいい。歌っている彼女の足腰に注目してもらいたい。もともとリズム感のいい人なので下半身は常に「歌を踊るがごとく」揺れているが、ジャニス・ジョプリン、実によく色々なものを蹴る。ステージ本体はもちろんのこと、モニタースピーカーであったり、マイクスタンドであったり、とにかく蹴る。蹴る女だったのだ。
 では、魂としてなにを蹴っていたのか。いや、蹴らずにはいられなかったのか。
 テキサスという保守的な土壌で、ただ一人ビートニク詩人に焦がれてしまったこと。その孤高の少女時代か。テキサス大学オースチン校の「学生が選ぶみにくい男子学生コンテスト」で女子学生ながら一位になってしまった、生涯消えぬ傷を背負ってしまった日のことか。あまりのショックからその翌日テキサスを離れ、西海岸に向けて傷心の旅に出たことか。デビューしてからも容姿をとやかく言われ、ドラッグが手放せなくなったことか。
 そう。レナード・コーエンは「チェルシーホテル・ナンバー2」という曲のなかで、ジャニス・ジョプリンとのベッド・トークを明かしている。「我々は見目麗しい存在ではなかった」と語るレナードに、ジャニスはこう言う。「でも私たちには歌があるじゃない」と。
 あるいは蹴りつけたかったのは、どんなに喝采を浴びても心の傷が治らず、「自分はクラスや学校、町、そして国の笑い者になってしまった」と死の半年前に言わしめた巨大なコンプレックスそのものをか。
 そこまで傷ついたジャニスが国家的スターとしてテキサスの高校の同窓会に舞い戻った時、やはり小馬鹿にし続けた田舎者たち。彼らをか。
 ボクは個人的に、ジャニス・ジョプリンをいじめ続けたテキサスという土地に中指を立てたい気分だ。
 だが、テキサスがなければシンガーとしてのジャニスが生まれなかったのも事実であろう。蹴りつけるものがあったからこそ、あの脊髄から絞り出すような声は存在し得た。
 ジャニス流はジャニスにしかできないが、亜流としてボクらも蹴ることだけは真似できる。容姿で笑われたことがある。孤独な時代があった。いや、今も孤立している。なんでもいい、心の傷がかさぶたに遠い人は、ステージを蹴りつけながら歌えばいい。そこに新たな声が生まれる可能性はある。