クイーン

 もう二十年以上も前の話だが、深夜のテレビ番組でUKのヒット
チャートが流れた。久方ぶりに出されたローリング・ストーンズのアルバムが堂々の1位で、その直後にどういうわけか日本のスタジオでは松本伊代が歌い出し、別にボクは松本伊代を嫌ってはいないし、いてもらって全然かまわないのだが、日本の男たちが「いよちゃーん」と叫んでいるのを見て、ストーンズのクリップを体験した直後だっただけに、この国は衰亡していくだろうなとはっきり思った。
 その種の衰亡感は今も連綿とあり、たとえば少女たちを何十人も安い金銭でやとい、過酷な生存競争に押し込んでおきながら経営者は巨万の富をつかんでいるアキバのやり方について批評批判はなく、ファン投票の結果だれだれが一位になったと読売や朝日までが報じるのを見ていても、座り込んでしまいたくなるぐらいへこむ。
 これって、なんなんだろうと思う。
 個人的な印象で申し訳ないが、そのひとつは歌というものに対る言葉の感覚の違いではないかと思う。ボクは歌だけではなく詩の朗読もやっているので、ただ音符を埋めるだけにあてがわれたような歌詞が続くと、どうしても聴く気が失せてしまう。ところが「言葉なんて」という人は意外と多く、大事なのはメロやハーモニーであって、言葉なんて道具に過ぎない、むしろあまり意味のあることを歌って欲しくない、という声をぶつけられることが多々ある。
 これに対して反論しだすと長くなってしまうのでここでは割愛するが、「言葉なんて」と邪険にする人は、結局は自身の言葉をも大事にできず、「言葉なんて」という批判を自ら引き入れる人生を送ることになるだろう。それは言葉という祝福を与えられた一度きりの人生にとって、たいへんに不幸なことだ。
 クイーンのフレディ・マーキュリーはバイクセクだったし、エイズで死んじゃったし、晩年はバナナの房をかぶって歌ったりしてちょっとコミカルなイメージさえ残した。たぐいまれな彼のサービス精神がなせる技だが、では、日本の洋楽ファンのいったいどれだけが、クイーンの歌世界を、フレディが言葉で作り上げようとしていた「聴く側もそこに立ち位置を見つけられる」領域感を理解しているかとなると、ボクは甚だ疑問だ。
 で、こういう書き方をすると生理的に腹のたつ人もいるかもしれないので、そういう人はぜひ世界的ヒットとなった『ボヘミアン・ラプソディ』あたりを日本語に訳してもらいたい。今ではネット上で熱狂的なクイーンファンの歌詞和訳口座にすぐに出会えるだろうから一切の苦労はせずにそれを知れるかもしれないが、できればそうはせず、辞書を片手に『ボヘミアン・ラプソディ』と闘い抜いて欲しい。おそらくは歯が立たないぐらい難解なフレーズも幾つか出会うだろう。しかしそのうち、罪を犯してしまった少年に対するフレディの深い思いに、目が覚めるような鮮やかさを感じるはずだ。
 直訳で理解するなら、『ボヘミアン・ラプソディ』は人を撃ち殺してしまった少年の内的な衝撃と後悔、愛してくれた母を思いながら自らもまた果てようとする少年の最後の祈りを詩的に展開した大作である。そこにラテン語の表現や、イスラムの説話に出てくる大王などを配したのはフレディの教養、というよ
りはやはりそこもサービス精神であろう。表現を発酵させていくなかで教養の実りを輝かせるのは詩人として当然のことだし、だからこそ聴く側も全身で受け止められ、受動者でありつつ、そこに立ち位置を得られるのであるとボクは思う。
 女子高生が投身自殺をしたり、クラスの同級生をいきなり刃物で刺したりと、追い詰められて立ち位置を失った子供たちの声が闇に充満していそうな日本の夜である。ただ商機になるだけの安易な子供だましでは、子供であることに悩んでいる子供たちは救えない。
 フレディが『ボヘミアン・ラプソディ』で描き切った「生きていくことの寂しさ」は、英国籍でありながら有色人種であった彼の孤高とも相通じているように思える。バンドが売れない頃に、メンバー全員でリンゴジュースやポテトチップを作って客に配っていた真摯さは、音と言葉の世界の突き詰め方と同じところから出てきたのではないか。
 人前で表現している以上、大事なのは音楽であって言葉ではない、などという思いがあればそれは傲慢に過ぎる。音も言葉も双方磨かれてこそ、客もまた居場所を見つけられるのだ。クイーンを聴いていて、いつもそう思う。