ビリー・ジョエル

私はポップスの歌手である。
ポップスとは、要するに「流行歌」である。
「流れ行く歌」、時代の上を吹き抜ける風、である。
ある時代を生きる(た)人の「ファッション」であったり、「暇つぶし」であったり、デートのときの「演出」の一部であったり、「癒し」であったり…その時々の「実用品」なのである。
これは日本だけではない(と思う)。
「時代の空気」を敏感にキャッチする「アンテナ」を持った「プロデューサー」の差配で同じ感度の「アンテナ」を持つ「作者」が作った曲を、同じ「アンテナ」を(半ば無理やりに)おっ立てた「歌手」に歌わせる。
ポップスに限らず、いや音楽に限らず「ものづくり」には必ずこの三つの役割が存在する。
たとえば、本なら「出版者」がいて「作家」がいて「本屋」がいる。
家電品なら「メーカー」があって「下請工場」があって「電気店」がある。
農産物なら「農協」があって「農家」があって「八百屋」が…
つまり「商品」なのだ。
その時々の「お客さまのニーズ」に的確に答えたものだけが「ヒット商品」になるのである。
そして、どんなにヒットしても「時代」が変わればそのほとんどは「時代遅れ」となり、ポスターははがされ、本やCDは捨てられたりフリーマーケットや「ブッ○オフ」に並ぶのである。
ポップスは本質的に「芸術」とは対極の位置にある。
ポップスの場合、死後数十年たって絶賛されても意味は無い。ハンフリー・ボガードではないが、「そんな先は知ったこっちゃない」のである。
「芸術作品」はそうではない。
ゴッホの絵は生前、たった一枚(しかも親戚に)しか売れなかった。彼は極貧のうちに死んだ。
ゴッホは絵を描いたことでちっとも(金銭的に)報われていない。
ところが現在、彼の絵はデッサンですら数億である。高い絵は数百億だ。
草葉の陰でゴッホ先生、さぞ無念であろう。でもしかたがないのだ。それが「芸術」というものなのだから。
「時代と関係なく普遍的な価値を、自らを犠牲にしても追求する」それが「芸術」
「時代の風を敏感に読み取り、タイムリーなヒットを狙う」それが「商品」すなわちポップスなのである。
「鮮度いのち」、である。
お寿司やてんぷら、なのだ。
「明日」では美味しくいただけないのである。
「いま」なのだ、ポップスは。
 だからポップスの歌手のことを「アーティスト」と呼ぶのはあまり的確ではない。
「プロ」でいい。「プロの歌手」でいいのだ。
「プロの板前」や「プロの大工」となんら変わりはない。
「プロフェッショナル」であることの自覚と誇りがあればいい。
「プロ」の「アーティスト」などという存在は、厳密に言えば滅多にいないのだから…。
その「滅多にいない」アーティストの「作品」について書こうと思う。
私の場合、それは第一に「ビリー・ジョエル」であった。
高校時代、私の音楽情報源は圧倒的にラジオの深夜放送だった。それもAMラジオである。いわゆる「受験生の友」というヤツだ。1970年代(後半)のことである。
「アイドル全盛期」であった。
当然ラジオからも、そういった「商品としての音楽」が、まさに洪水のごとくあふれ出していた。
いつからかそれらに混じって、不思議な曲が流れ始めた。
「不思議」というのは「変な」ということではない。
英語の曲であるにもかかわらず、「なんとなく言ってる気持ちがわかる」というおそるべき曲であった。
最初は私の英語力が突然アップしたのかと思った。
だが、それは翌日の「英語の小テスト」によってまったくの勘違いであることが証明された。
私のせい、ではなかった。「曲の力」だったのである。
僕にウケようとして
「変わろう」なんて思っちゃダメさ
君にがっかりしたことなんか一度もないんだから
僕はいつだって君のそばにいる
楽しいときがあったように
苦しいときだってあるだろう
でも、いつでも素顔のままの君が好き
「Just the way you are (素顔のままで)」  
私のヘタな訳でどこまでこの曲の素晴らしさが伝わるだろう。実にシンプルかつストレートな愛の表現。まるでカフェかどこかでお茶してるカップルの会話を聞いているような臨場感。それでいてちょっとおしゃれ。
「愛してる」でも、
「惚れている」でも、
「はなすもんか」でもない。
 「好き(Ⅰ’ll take you )」と言い捨てるスマートさ。
恐るべきことにそのニュアンスまでもが美しいメロディラインとビリーの歌声によって日本のラジオの前のニキビ面の受験生にまで伝わったのである!
「歌とはこんなにすごいものなのか…」素直にそう思った。
考えてみれば今私が歌っているのもあのときの体験が始まりなのかもしれない。
歌唱表現としてはドあたまの「don’t go changing~」の「go」の伸ばしが絶品である。
この曲はここで決まる、とさえいえる。
私は仕事でこの曲よく歌うがいまだ自分に満足できないでいる。
この曲はもともと当時のビリーの妻に捧げられた曲であったそうだ。
そうするとあの「go」には妻(当時)への本物の「愛情」がこめられていたのかもしれない。
この「素顔のままで」が収録されたアルバム「ストレンジャー」(’77)は、それまでスマッシュヒットはあるもののブレイクまで行かなかったビリー・ジョエルを一気にスパースターへ、「アーティスト」へ押し上げた。
その秘密はこの「goの伸ばし」にあると、今でも思っている。