菅原洋一とムスタキ

 ショルジョ・ムスタキという神様のような容貌と声のシャンソン歌手がいました。京王プラザで会ったときの写真(私はそういうものは遠慮しているので数少ないアーティストとの写真の一枚)が研究所に飾られていますが、私にとってはムスタキ―バルバラ、ムスタキ―大塚博堂(「ある日恋の終わりが」)でした。「軽く、深く」歌うので、そういう方向での私の憧れの歌唱の一つでもありました。そういう神懸かり的な人は世界にいますが、仙人のような人として、他にいないか、日本には…と。
 たどり着いたのが、今年、歌手生活55周年となる菅原洋一さんです。34才で「知りたくないの」、37才で「今日でお別れ」(これをTVで聞いたのです)の大ヒット。国立音大出の声のよさが売り物の歌手でした。声がひっくり返ったのに音大に受かったと回顧なさっています。
 当時は、音大生は、在学中ポップスのステージ禁止、卒業後もポップスで歌っては堕落と思われていましたが、そういう人たちが演歌、歌謡曲全盛時代を創り出していったのです。
 
 声のよさと歌唱力は、切っても切れない関係にあります。声の良さは楽器としてのよさと、発する音の良さで必ずしも歌唱力に結びつくわけではありません。ヴォイトレは、本来、ここのベースを行うのです。(楽器づくり、その調整)音楽的な演奏能力は全く別です。これこそが世界との著しいギャップが埋まらないところですが、今だに変わっていません。むしろ改悪?
 歌唱力というのは、結果的に伝わる力とでもいうしかありません。好みが異なる客というものに対しては、判断を一つにして捉えるのは無理です。(しかも歌唱は作詞作曲、アレンジ、ステージ力まで絡んできます)
 でも、表現力を抜きにしたヴォイトレは、実践としては甚だ無力で、歌う人任せであってはなりません。そこで私はデッサンというフレーズや、その組み立てできちんとした基準をもたせました。世界の演奏(歌唱ということ)と相対化することで視覚や場に左右されないように、音の世界への声の働き方に基準をつけ、実力として換算できるようにしたのです。
 こういう基準については、発声(共鳴)のイメージと同じで、質問も多いところです。
 CDなどの音源で説明するか、このように断片的にイメージで語って、その人のなかでトータルイメージの組み立てられるのを待つしかないというものです。
 "仙人”である菅原洋一さんは、美声でならしたのですが、今は声そのものでなく、また、ことばだけでなく、声のデッサンで伝わるようにしています。プロが若いころの声量を失っても、若いアマチュアに負けないのは、まさにこのデッサン力なのです。(若い画家が高価なアクリル塗料を使って全力で何十時間もかけて塗りたくった絵と、ピカソの1分で描いた鉛筆のクロッキーとの違いとでもいいましょうか)
 これは、メリハリとも違います。声で、その色と線で、何らかのイメージを伝える。その色は一つ、線も最低限、ポイントだけ「さっ」と置いて、それでいて全体像を(その本質を)しっかりと伝わるようにする、そういう歌なのです。美空ひばりも、声やことばはもちろんですが、その後ろに大きなイメージを聞かせる歌手でした。存命であれば、やはり、神のように歌うようになったと思います。修業した僧は、素晴らしいとしか言いようのない○(円)を一筆で描くのです。正確な○とは、ほど遠いけれど、ずっと眺めても飽きないほど人の心を打つのです。学ぶべきはデッサンです。