シャルル・トレネ

「表現の裏にあるもの」

彼のビデオを見て、なぜこの人を見てると楽しくなってしまうのだろう、
ウキウキしてくるのだろうと思った。
足をガンガン踏みならしながら思い切り拍手したい気分だった。
特に「喜びあり」を聴いたときは、全身の血がざわざわしてくる感じがした。
まるで、この世につらいことなど存在しないかのように、
存在したとしても、そんなことでくよくよするのなんか馬鹿げてるよ、
とでも言うように、彼は瞳をかっと見開いて生きる歓びを歌う。

この人、悲しい思いをしたことないのか?
なぜまわりの人すべてを幸せの中に巻き込んでしまえるのだろう?
と、その秘密をどうしても知りたくなった。推測するに、
彼は本当はすっごくシリアスに、ものごとを受けとめる人なんじゃないかと思う。
表現になるのは、彼の陽気な部分だけだが、
彼の内面はとてもシリアスなのでは?と、彼がビデオの最後の方で
歌った歌を聴いて、強く思った。

歌の題名も歌詞もほとんど忘れてしまったが、
“死んだら、空腹は終わり。蚊にさされることもない。幸せと自由が待っている。”
といったような詞の内容だったと思う。
こういう歌を歌えるのは、夢を見るすき間もない現実に身をおいて、
その苦しみを存分に味わい、死をも考えたことがある人だけだ。

ただのノーテンキ人間が歌ったら、きっと「他人の苦しみも知らないくせに」と
思ってしまう。彼はノーテンキではない。
逃れることのできない現実や死というものをきちんと踏まえた上で、
それでもやっぱりというか、だからこそ、夢を歌うのだ。
つらいことが多いからこそ、生きることの歓びの部分を
体いっぱいに受けとめ、表現するのだ。

表現というのは、彼のように表面上に見える部分を裏づける陰の部分が
すごくしっかり確立されていないと、人の心を打たないし、
第一、表現する必要性がないように思う。

表現者は、一見相反するようなものの見方を両方理解し、
「うん、でもやっぱり、こうありたいよね…」の部分を表現するものじゃないか。
というか、自分の中で相反する考え方、両方に共感してしまったゆえに、
もがき苦しんで、なんとか答えを見つけたくて、なんとか自分の立場を確認したくて、
表現さぜるを得なかったという流れで、何かが生まれてくるのではないか。