弘田三枝子とその時代

日本のポピュラーミュージックを「戦後」から考えた場合、ざっくり分けると①サンフランシスコ講和条約(昭和27年)、②東京オリンピック(昭和39年)、③オイルショック(昭和49年)の前後あたりで大きな変化が見られます。
終戦直後から①までは、「直輸入の時代」。
いわゆる「進駐軍」によってチョコレートやチューンガム等とともにもたらされた、ジャズ、スタンダード、スクリーン・ミュージックを、どちらかと言えばありがたく「仰ぎ見ていた」時代です。ポップス音楽の「ビッグバン」だったのでしょう。
この時期に「女王」美空ひばりや、江利チエミ雪村いづみなどの歌手はジャズを英語で歌うのが普通でした。
①の後、②までの間は「和製ポップス誕生の時代」。
前の世代に影響を受けて、若い世代の作り手がアメリカン・ポップスのメロディーに乗せて日本語に「意訳」した歌詞を歌い手に歌わせ、これが空前の「和製ロカビリー・ブーム」やら「和製ポップス・ブーム」を生んだ時代です。平尾正晃、ミッキー・カーティス、山下敬二郎坂本九などが代表的ですね。
②から③は「アイドルとフォークの時代」でしょう。
どちらもいわゆる「若者音楽」であり、一方で「歌謡曲」が確立した時期でもあるわけで、「多様化」の幕開けでもありました。
おりしも、学生運動が「70年安保」の挫折によってひとつの終末を迎えるのと同時に、「シラケ世代」と言われた若者たちは作られた「偶像(アイドル)」に入れあげるか、「四畳半フォーク」と揶揄されながらも、自らの半径5メートルくらいの範囲の出来事に森羅万象を見る「文化的隠遁生活(?)」に入っていったのでした。
井上陽水「傘がない」、吉田拓郎「旅の宿」、かぐや姫神田川」なんかが代表曲でしょう。
これ以降、1980年代に入り、④CD(コンパクトディスク)の登場から「サウンド志向」が高まるとともに「流行り廃り」のサイクルが激しくなり、⑤「バブル景気とその崩壊」を経て90年代になると、ダンスミュージック、ヒップ・ホップへと流れ、ラップ音楽が全盛。インディーズレーベルの乱立期を迎えます。
そして21世紀を迎えて⑥パソコン・ケータイの普及に伴い、「ダウンロード時代」となり、グループアイドル、ビジュアルロック、韓流ミュージックへ・・・と現在につながるわけです。
で、まいど前置きが長いんで恐縮ですが、今回の「弘田三枝子」はどこに位置するか、というと①と②の間のデビュー(昭和36年)ですから「和製ポップス」世代ともいえるのですが、何せその時まだ14歳でしたから、年齢的にはその後の②~③世代とも言える微妙な存在なんです。同年代に伊東ゆかり中尾ミエがいますね。
彼女は東京生まれで、10代始めから立川にあった米軍キャンプのステージに立ち、「一世代前の雰囲気」を身につけた、と言えるのかもしれません。
デビューの翌年、コニー・フランシスの「Vacation」をカヴァーし、たちまちヒット歌手の仲間入りを果たします。
現在、youtubeなどに彼女のこの頃の歌唱がアップされていますが、正にアメリカン・ポップスの申し子、というか、リズミカルでパンチの効いた歌声は、当時から「日本女性歌手史上最高の歌唱力」とさえ言われていました。現在にいたるまで、こんな歌い手
は他にいないかもしれません。
1965年には、アメリカの「ニューポート・ジャズフェスティバル」に日本人として始めて出場。カーメン・マクレエフランク・シナトラクインシー・ジョーンズカウント・ベイシーオーケストラ、スタン・ゲッツジョン・コルトレーンウェス・モンゴメリーデューク・エリントンなど、当時のトップクラスのジャズミュージッシャンが勢ぞろいした中、堂々3日目の「トリ」という大役を務めました。
世界が認めた「実力派歌手」だったわけです。
その後も「人形の家」などのヒット曲を量産し、確実にスターの道を歩むかに見えました。
ところが、歌手としていよいよ黄金期、という30代以降になって、彼女の活動は徐々にスローダウンしていきます。
「テレビ全盛」を迎え、先の「アイドル」が幅を利かせる時代を迎えていたのでした。一言で言えば「歌唱力より見た目」の時代になってきた、わけです。
そうしたいわゆる「ビジュアル重視」の流れに乗って彼女も、自身の「改造」に挑み始めます。
もともと、不美人でもないのだけれど、童顔で健康的なイメージの彼女は、年齢とともに大人の、やや暗いトーンの曲を多く歌うようになり、自身のイメージと、曲とのギャップを感じていたのでしょうか。
1070年代中頃から、テレビで見る「弘田三枝子」がどんどん変わっていくのを子供の頃、リアルタイムで目撃した一人です。
はじめは「うわぁ~美人になったなぁ」でしたが、だんだん過激に、加速度的に「マイケルジャクソン化」してゆく彼女の容姿を見ていると、
「う~ん、これどうなんだろう・・・?」と考え込まざるを得ませんでした。
活動自体も、だんだんテレビで見る機会が減り、現在はディナー・ショーが中心だと聞きます。
それとこれとは直接関係がないのかもしれませんが、多くの人々にあの素晴らしい歌声を知ってもらう機会が少なくなってきていることはなんとしても惜しい、と言わざるを得ません。
サザンオールスターズのヒット曲「チャコの海岸物語」と言う曲に
「こころから好きだよ ミーコ 
抱きしめたい
甘くて すっぱい 女(ひと)だから・・・
(あいしてるよー)
お前だけを」
という部分があります。「ミーコ」とはもちろん弘田三枝子のこと、「時代を築いた偉大なポップス歌手」に捧げる、桑田圭祐氏のオマージュだったのです。
ついでに僕も叫んじゃおう。
「ミーコ、愛してるヨォォぉーーーーッ!(60年代)」