河島英五

 大編成のグループやコンピュータを通過した音ばかりがもてはやされるようになったのはいつのことからだろう。ある大手出版社が自社の漫画作品へのテーマ曲を募集したところ、驚いたことに初音ミクに歌わせている作品が多く集まった。初音ミクは音声作成ソフトで、打ち込んだ音符通りにコンピュータが歌ってくれるのだから破綻がない。しかももっと驚いたことに、審査の結果、初音ミクものが優勝してしまった。これも時代なのだろうか。
 一人の人間が朴訥に歌う、歌。それはどこに行ったのか。ギターを抱えて歌う。あるいは単純に一人、肉声で歌う。歌の基本はあくまでもそこにあるはずなのだが、電気的過剰包装がここまでくると、芯の部分まで変質してしまっているようで、聞こえてくる声にも猜疑心が宿る。すでにボクは時代遅れなのだろう。遺物だ。
「時代遅れ」という作品を歌ったのは河島英五さんだ。ピアノの前で一人朗々と「時代遅れの男になりたい」と、それこそ時代にはそぐわない歌を歌われていた。亡くなられてもう十年になるが、歌に対する自由奔放さと真摯さという意味で、ああいう人はもう出てこないのではないかという気もするし、あの大きな体から絞り出された言葉を聴く度に、今でも歌はここにありき、という心になれる。
 ボクがまだライブハウスでモヒカンを突っ立てて叫んでいた頃、河島英五さんに自分たちのステージを撮ったビデオと、できれば共演して欲しいというめっそうもない願いを書いた手紙を送ったことがある。
 河島さんは大阪の人なのに、仕事で上京する予定があるからいいよ、と受けてくださった。とはいえ、こちらは絶叫系のパンクバンド。河島さんが動員してくださったファンクラブの女性たちはみな泣きそうな顔をしていた。空間としては異常だった。だがやはり河島さんはギター一本だけを抱え、頭のてっぺんから爪先までを総動員させたエネルギー体となって、ひとつひとつの歌に魂を入れてボクらに届けてくれたのだった。
 打ち上げの席で、ひとことだけ言われた。
「長くやれよ。続けなあかんで」ということだった。
 その後、阪神大震災の救援ライブに呼んでいただいたり、河島さんのラジオ番組に出演させてもらったりと、時折思い出してはもらえるような関係になる中、今でも忘れられないのは河島さんに叱られた二点のことだ。
 その頃ボクはまだ煙草を吸っていたので、なにかの拍子に河島さんの前で一本くわえてしまった。とたんに河島さんは機嫌が悪くなった。
「歌にとってマイナスなことはいっさい排除せえ。人生は短い」
 今ボクは煙草を吸っていないが、その通りだと思う。
 もうひとつは、いつまでたってもボクがギターを弾こうとしないことだった。楽器は得意じゃない。自分の稚拙な演奏より、ギタリストに任せるのがスジであると今でも思っている。だが、もちろんそれはステージ上のことであって、一人で歌を作ったり、あるいは公園で一人歌うような時はやはり多少は弾けた方がいい。
「簡単なコードで、シンプルに歌う。それでもええんや」
 あれから十年、酒場でつまびく程度のギターだが、歌というものと対峙する時、ボクはこの河島さんの教えこそが深かったのだとつくづく感じる。人前で弾かなくてもいいから、ヴォーカリストもまた楽器をひとつ手にしてみるべきだ。なぜなら、誰かが誘導するわけではない自分の歌がそこに生まれるからである。そしてそれは本人が心をこめて歌うのなら、あらゆる時代を越えて生き続ける。
酒と泪と男と女」「てんびんばかり」「約束」
「野風僧」・・・幾つもの河島さんの歌が、いまだ胸にしみ、そしていまだ発見がある。それはきっと、河島さんもまた自分が生きるための歌を歌われてきたからだろう。
 四十八歳で河島さんは亡くなられてしまった。壮絶で濃厚な人生であった。でも、その歌の数々は電気ではなく、人の息の中にあった。だから今でもそばで生きている。