V010「カルーソ」 村上進 

2.曲の始めなどの語り口調の部分で、何か所も、日本語の話し言葉を重視し過ぎてか、音をわざと外しているのが、オリジナリティと捉えているのかもしれませんが、かえって残念です。日本語として、自然にしようという意図が、逆に、音が外れていることが目立ち、言葉も音も聴く者の耳に入りにくくしているように、思われます。他の歌手たちは、日本人ではないということもあるのか、和声内の音にハマっている場合や、装飾音的な範囲でずらしている場合がほとんどなので、音楽的に違和感を感じさせることが、ほとんどありません。それ以外の部分では、声の実力を無理なく使って、うまく曲をまとめているので、音をわざと外すことは、このジャンルでの、日本的な常識なのかもしれません。また、音楽的には外し過ぎているということに、感覚的に麻痺しているのかもしれません。もう一つ残念なのは、高音域でのロングトーンが、バリエーションが少な過ぎることでしょう。これが最高音なら、そもそも何度も繰り返し歌わないはずなので、気にはなりませんが、何度も繰り返し歌える程度の高音域で、同じような表情の声を多用してしまうのは、発声的には、無理をしているのかもしれません。(♭Ξ)

 

1.日本語にしたことで情景やドラマは見えやすいと思います。また、歌い始め冒頭は低音で台詞に近くなっているので言葉も聞き取りやすくなっているとおもいました。ただ、この歌はイタリア語のもつ長母音やアクセントなどと歌のリズムが密接に絡み合っている曲なので日本語にしたときの字余りのような感じが違和感をいなめません。また、日本語にしたことで息漏れの音が多くなりやすいため、イタリア語のもつ声門閉鎖からくる声の輝きがどこか湿っぽく聞こえるのも、違和感があります。

 

2.とても素敵な声ですし、日本人としては深みのある声だと思いました。ただ、深いというよりは低いといってもいいかもしれません。体の中から出ている声、低い喉のポジションでの声というよりは本来の声があまり高くない方なのかなという印象です。また、タイトルの通りカルーゾという伝説のテノール歌手の方をモチーフにした曲ですので、もう少し高い音で歌ってほしいです。決めの音がFというのは曲としてだいぶ印象が変わってしまっています。私自身この曲はよく歌いますし、イタリアでもポップス歌手やオペラ歌手たちが声自慢のように高音をそれぞれの発声で披露している姿を何度も見てきたので、この録音の声は少し渋い印象を受けてしまいます。(♭Σ)

 

1.歌詞が多い語りの部分、しっかり歌い上げる部分が交互にあるので、メリハリをつけて表現することが求められます。一つの音程で歌詞を多く発音するときは、すべてが一本調子にならないように、(伊語歌詞で歌う場合は)単語ひとつひとつの意味を理解するのはもちろん、言葉のアクセントや発音の聴こえ方を優先して(良い声を聴かせることばかりを優先させないという意味)フレーズを歌います。語り部分の多いカンツォーネを色々と聴いてみると参考になります。

 

2.歌詞の多い語りの部分で、あえて音程をつけない(音程をやや外す)ようにすることでより語っているようにセリフのように聴こえ、そのセリフと歌の境目が不自然さなく移行されているといった印象を受けました。流れるように歌っていても歌詞や旋律の輪郭が良く分かりますし、曲全体にもメリハリがあり、(滅多にないことですが)日本語訳の歌詞で歌うことによって原語で歌う歌手たちとはまた違った良さを見出だせることもあるのだな、と感じさせられました。(♯α)

 

2.この曲は、Lucio Dallaが往年のテノール歌手Enrico Caruso(以下、カルーソー)を偲んで作詞・作曲したものです。カルーソーはナポリ出身で、ミラノやニューヨークなどを中心にオペラで活躍し、時期はちょうどレコードの黎明期でした。様々な録音はCDとして残されています。カルーソーは48歳という若さで亡くなりました。歌詞にはカルーソーの人生の様々な思いが凝縮されているように思います。音楽も叙情的であり、繊細さとドラマチックさを兼ね備えていると思います。

この曲を歌うのであれば、イタリア語の内容がしっかりわかっていること、そして、イタリア語の語感を正確に発音できることを大切にすると良いのではないでしょうか。そして、これらを融合させ、ドラマチックに聞き手に伝わるように工夫してみると良いのではないでしょうか。そのためには、言葉の意味もそうですが、書かれている内容、特にこの場合はモデルになっている人について興味を持つということは非常に大切なことだと思います。カルーソーがどのような活躍をしたのか、歌詞にはどのようなことが書かれているのか、色々興味を持って歌ってみましょう。(♭Я)

 

1.曲の前半部分は、語りでストーリーや登場人物の説明をして、そのあとに出てくるメロディックな部分で歌いあげるという構成です。シャンソンカンツォーネ、古くはオペラなど西洋音楽では常套的な構成で作られています。語りの部分は声の音量を控えめに抑制して、歌い上げる後半部分でしっかり声を張り上げ、そのコントラストで曲の構成を作り、盛り上げて聞くものを魅了します。

 

2.この歌手の特徴は、日本人でありながら、喉が上がった甲高い声ではなく、むしろ音の成分として低い音を含めた声で歌っているということがあります。高音を歌うときにだいたいの日本人は咽頭部分も持ち上がってしまい、聞くものとしてはあまり美しくないという印象を持つものですが、この歌手は訓練によるものなのか、低い音の成分を保ったまま歌えています。洋楽をよく勉強し、イタリア語など外国語で歌う経験があったのでしょう。(♯β)

 

2.アコースティックなイントロにまずは耳を奪われます。dmollニ短調は動きのある調性。ベートーヴェン第九の交響曲の1楽章です。この調の主和音のハーモニーがまず曲の頭で鳴ります。注目すべきなのは低いセッコ(乾いた音)の空虚5度の低弦の上にナインスの音までなっています。歌が入る前にハーモニーはI→IV→固有のV→VI(偽終止)→IVを経てドミナントに落ち着きますがこれが変わった和音。V音上のナポリです。そしてこの散文詩のような文学的な歌詞が始まります。語るように歌うのは誰が聞いても明らかですが、裏にあるのは抜群のリズム感と音感の良さです。

試しにやってみるとわかるのですが、語るように歌ってからこれほど正確に正しい音程に乗せるのは至難の業です。同様にリズムも、適当に語っているように聞こえますが、絶妙なところで0.1秒の狂いもなく拍にオンしています。高く聞こえないでしょうが、このサビの高い音域Gが完全に体でつかめています。

言葉がはっきり聞き取れることはもちろんですが、その情景がなぜか視覚的にはっきりと目の前に見えます。これはなぜなのでしょうか。「発音イントネーション滑舌すべて特に問題がないはずなのになぜ情景が浮かばないのか」というのはレッスンしていていつも感じる謎です。その「何か」をこの録音を通して学べればよいのではないでしょうか。(♭∴)

 

1.不世出のオペラ歌手エンリコ・カルーソー1873年1921年)の晩年をモデルにした歌です。愛する女性を港町ソレントに残して、健康を害したカルーソーが出かけなければならないのは、遠いアメリカでの公演か、それとも死への旅でしょうか。煌びやかなで虚飾に満ちた舞台の世界と、余裕のない真実の愛の対比。曲の前半はほとんど喋るようなレチタティーヴォ、後半ではメロディックに彼女への愛が歌い上げられます。

 

2.村上進はファドやカンツォーネで活躍した歌い手です。甘く鼻腔に共鳴する声は、持ち声の響きのよさだけに頼らず、澱みなく前へ前へと繰り出されます。ブレのない明快な音程で聴かせてくれるレチタティーヴォは、ラテン系の言語の語感を上手に日本語に移植した数少ない成功例に感じます。第一声だけで切ない情感を伝えてくる歌声です。

この曲は、テノール歌手のルチアーノ・パヴァロッティも愛唱しています。パヴァロッティはもっと明るく軽やかに歌うので、村上のようなペーソスはありませんが、後半部分の高音はさすがの圧巻です。(♯∂)

 

 1.情熱的な情感を歌い上げたものです。

前半部分は抑えめに、後半のサビ部分は音域がぐっと上がり、対照的な構成になっています。

スローテンポの中に、エレキギターの間奏が印象的です。

 

2.曲の前半はほとんど音程がついていないように感じる部分もあり、セリフのような語りになっています。後半は、対照的に歌い上げていて、そのコントラストが感情をダイレクトに観客に伝えます。

日本語の母音がムラなく響く歌唱法は、呼吸と共鳴のトレーニングの重要性をあらためて感じます。(♯ё)