V004「暗いはしけ」アマリア・ロドリゲスと村上進(ポルトガル語と日本語)との比較           

1.歌詞と曲と演奏 ことば、ストーリー、ドラマ、情景描写、構成、展開、メロディ、リズム、演奏、アレンジなど

2.この歌手自身の声、歌い方、オリジナリティ、感じたこと、伝えたいこと(VS比較歌手)

 

1.歌詞が女性の歌なので、やはりアマリアの方が、深く心に響くものを感じてしまいます。落ち着いたテンポで歌われるということも、大きく関係しているかもしれません。

 

2.アマリアは、中低音も輝かしい声ですが、ややチリメンビブラート気味のようです。それでも高音域などで、耳障りになるほどではないのは、わざとチリメンっぽくして、活用しているのではないかと感じさせます。また、高音には気負いがなく、詩の内容に即して、適度な張りと艶があって、とてもうまく歌いこなしています。

一方、村上進は、テンポがかなり早めに設定されていて、全く内容が違う曲を聴くような気がします。曲の最後を、低めの音で静かに淡々と終わるアマリアと、高音のロングトーンで歌いきる村上進で、対照的な想いを感じます。アマリアに比べると、彼の声は輝きが少なめで、少し硬めのソフトな響きです。

イタリア人のカンツォーネ歌手は、あまり口の中が空いていないイメージですが、村上進は、高音域では特に空けられています。ところどころに綺麗なヴィブラートがかかりますが、高音のロングトーンでは、ノンビブラートの部分も多いのに、高音以外の随所に、わざと声の揺れを織り交ぜているのは、ジャンル的なテクニックなのでしょうか。(♭Ξ)

 

1.イタリア語に近い言語なので、母音の長短が鮮明でカンツォーネなどにも通じるものがあるという印象です。民謡ふうなリズムとメロディですが単語のアクセントで長母音でのロングトーンもみられますから、発声のよしあしが見えやすいです。

 

2.村上進よりもロドリゲスの方が声が強いという印象です。村上進の声は息が漏れている音が鮮明に聞こえるのに対しロドリゲスの声には息漏れがほとんど聞こえません。これは声門閉鎖がしっかりと行われている証拠であり、日本人にとってとても難しいことでもあります。喉に力を入れるわけではなく息が漏れないよう声帯をうまく振動させるのです。

ロドリゲスの声は息漏れがないだけでなく、喉にも力が入っていません。絶妙に声のチェンジを織り交ぜながら完全なファルセットにいかないところで歌っています。日本人では美空ひばりも声のチェンジが絶妙な歌手でした。

村上進は日本人には珍しく低い喉のポジションを維持できている歌手といってもいいでしょう。喉の低さは喉の開きとリンクしてくるのでとても重要です。喉の低さという点では、アマリアも村上進も共通していると思います。(♭Σ)

 

1.旋律がA-B-C-Aという構成で、歌詞の内容も起承転結になっていて旋律の構成にはまっています。A-目が覚めて今の情景、Bー見聞きしてあなたがいない現実、C-それでもあなたの愛が私の周りにあると知る、A-胸の中にもあなたは一緒にいる、この短い一曲の中に大きなドラマがあります。夫を失った悲しみの歌が、長調で同じリズムの上に歌われるそれが、短調で歌われるよりも悲しみが引き立つと感じられる曲です。

 

2.アマリアのポルトガル語で危機迫る感じを受ける部分があったので歌詞を見てみたところ、夫が亡くなったことを知っていく情景を歌っている部分でした。音程があり歌っているはずなのに魂の叫びのように感じられる部分があり、それは「狂っている!」という意味の言葉でした。(和訳歌詞にはありません。)音楽の中では言葉の壁はないこと、美声だけではなく表現力が乗ってこそ聴き手に届くものだと改めて感じさせてくれます。

一方、村上進は、女性目線の歌詞でありながらあえて男性が歌うことで、物事の流れや女性の心情を客観的に見た目線として歌っているように聴こえます。旋律や歌詞の内容が、同じ曲でも違った印象を受けるものだと感じました。(♯α)

 

1.ことばが違うので、それぞれの特徴があると思いますが、原語の方がよりフレーズのつながり感や音楽的な表現をしやすいと思います。日本語で歌う場合は、原語で歌うときよりもフレーズ感や言葉をしゃべり過ぎないことを気をつけないと、ぎこちなくなると思います。音やリズム、声などを追い求めすぎたり、まねしすぎたりしないように、自分の演奏したい内容をしっかりイメージして歌える(というより、内容を聞き手に伝えられる)ことを大事に歌うことが重要だと思います。

 

2.アマリアは、オケが割と縦でリズムをきざんでいるなかで、ことばのフレーズ感を出していて、歌が横の流れになっているのが印象的です。この流れがあるから、冒頭の徐々に音域が上がっていく部分から、一気に跳躍してドの音で歌う部分もスムーズにつながっているように聞こえます。音を歌うよりもことばの内容を歌っている結果、歌の旋律がきれいに聞こえるという感じです。

村上進は、日本語なので処理が難しいところですが、音よりも詞の内容を大事にしているのがよくわかります。語りの中に音やリズムがついている感じですね。

両者に共通しているのは、詞の内容を大事にしているということ、器楽的になっていないという部分を几帳面にならずに内容を表現したい場合、参考にするとよいかもしれません。(♭Я)

 

1.ポルトガル語で歌われています。漁に行った夫が帰ってこず、妻はいつまでも待ち続けるという切ない内容です。とても特徴的なのは、太鼓のリズムだとかけあうように歌われるということです。たいていメロディ楽器や伴奏楽器など、音階のつく楽器がずっと伴奏するものですが、ポルトガルはアフリカ大陸と近いので、アフリカ音楽の影響を受けたのかもしれません。

 

2.アマリアは、地声に近い「表の声」で歌っており、こぶしも回りやすいです。日本の民謡歌手もこの声の使い方に近いと思います。このように、声を裏返さず、しゃべり声のまま、自然な声のままでないとこぶしは回りにくいのでしょう。ポルトガル民謡のファドのように、歌い方も、地声の明るい声、倍音の多い声があっているのでしょう。

村上進は、鼻腔共鳴を使い、オペラなどにも通ずるような発声で歌っています。地声のまま出していないので、こぶしは不明瞭にならざるを得ません。しかし、とても情感を込めた、甘い歌い方で聞く人を魅了します。(♯β)

 

2.歌唱上の一番大きな違いはヴィブラートです。高い伸ばす音を聞くとわかりやすいですが、アマリアはだいたいいつも細かいヴィブラートがかかり、村上進はそれほどかかっていません。ヴィブラートは歌手の個性の一つで、いつどのくらいかけるか(自然にかかってしまうか)というのはかなり幅があるのですが、この歌唱を聴く限り、ヴィブラートに関してはアマリアと村上進は両極端と言っていいと思います。

結果として、村上進の歌唱は直線的でぐいぐい引っ張って行く感じ(過去は忘れて先に進みたい印象)、対してアマリアの歌唱はけだるくいつまでも気分に浸っていたい感じの印象を与えます。 

この曲で技術的に難しいのは、オクターブ跳躍です。村上進の歌唱は「グイ、すっすっ」とオクターブ跳躍をこなすので、それがオクターブなのか、難しいのか、ということに気づく暇も与えません。直線的な気持ちよさがあります。アマリアは高い音に入るときに、そのヴィブラートとあわせて、かなり「歌って聞かせる」ため、音が高くなったということが誰にもわかり、感情がはっきりと伝わります。

アレンジの視点では、村上進の演奏はとても明るく聞こえ、悲劇的な歌詞からむしろ狂気すら感じる、そのスリリングさが面白いです。アマリアのアレンジはほの暗さがあり、内容にマッチしているといえるでしょう。(♭∴)

 

1.ポルトガル語版の歌詞は、船が難破して夫が亡くなり、残された妻が半ば現実を受け入れられずに「いつもあの人が一緒にいる」と歌う内容です。対して日本語版は、なぜ夫が帰らないのかは(おそらく意図的に)ぼかされおり、海難事故なのか浮気して出て行ったのかは判然としない。いずれにしても、待つ女の心情が描かれています。

リズミカルな長調なので、あまり湿っぽくありません。途中のスキャットのような部分は半音階的な旋律をとり、声の技術と嘆きを存分に聴かせます。

原曲のタイトルはBarcoNegroで「黒い小舟」といった意味なので、はしけ=運搬用の大きな筏のような構造物では決してありません。きっと「黒い小舟」では日本で流行らないと思ったことでの判断なのでしょう。こういうことは音楽や映画において、とても重要です。(映画『郷愁』は、原題の『ペペルモコ』ではきっとヒットしなかったに違いありません。)

 

2.アマリアはファドの女王と謳われた人物です。この曲はファドではありませんが、演歌のコブシにも通ずる細かな襞のある声が、地中海的なソノラスな哀愁をただよわせます。

村上進の曲の歌い方は、かなりシャンソン寄りに感じます。女性よりも女性的な、歌舞伎の女形のような魅力が感じられます。(♯∂)