ジミー・スコット

憂鬱だからといって、歌を口ずさむ心をなくさないで下さい。
音楽はこの世で最も大きな“いやし”の力なのです。
音楽には愛と思いやりが満ちているのです。
旋律の魅力だけでなく、人生の物語を感じさせる歌詞にひかれる。
そういった楽曲を、ジャズの様式に再構築して歌うのが僕の流儀なんだ。
人はリスペクトしあわなければ。

生きることの痛みや虐待から自由になるためには、許すしかなかった。
そうしなければ、自分の体が出す怒りや哀しみの毒薬で死んでしまうと思ったから。
手本があったわけではない。
魂の叫びを静かに表現する方法として、最初からずっとこのように歌っていた。
つらい経験があるからこそ、歌に潜む本質を探し出せ、
歌の真にいわんとすることを聞き手に伝えられる。

私が先生でわたしの音楽を聴いてもらえる人を生徒さんとすれば、
生徒さんには授業を通して満ち足りた人生を生きる勇気を
学び取って欲しいのです。

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― 顔が小さかろうが、体が小さくて、バンドの人と肩が組めなかろうが、

髪の毛がちぢれていようが、眉毛なかろうが、もう歳で歩く時に、
ヒザがちゃんと曲がらなくても、人間の魅力や人生には関係ナイのだ。
トリオの演奏時間がけっこうあり、いつもはぼんやり聞き逃してしまう、
サックスもふと(ああよい音だなあ)と思った。
バスの人が神経尖らして繊細に音を扱ってるのが分かった。

ある一定以上の年齢の人だけがかもし出せる不思議な愛嬌、年輪の笑顔。
両手をひろげて、言葉を空間に投げたら、それが歌。何もしていない。
日本の短歌を叫ぶ人なんかと共通しているものがある。
おそろしくスローの奇妙なリズムだが、自分のエモーションのリズムを
確立しているので、バンドは呼吸を汲み取って合わせるしかない。
5人して、舐めず、舞い上がらず、ぶっつけの“音楽の”セッションをしている。
引き受けて立っている。完全に自分独自の呼吸。唯一無似。

ジミーは我々の眼の前にふれる以前からもう自由に開放されている。
現れるやいなや、面前の私たちに放って与えてくれる。
その人間的な懐の深さには頭をたれるしかない。

ジミーが“ラッキー”と一言、空気中に置いた「ラッキー」は、パチンコ屋や、
飲み屋街の街頭で踏みつけにされたキャバクラのちらしにあるような、
安っぽい黄色やピンクのカタカナ英語の(らっき-!)ではない。
まるで秀作の油絵のように、暖かく、哀しく、幸せで、
深みの独自の色彩が浮かび上がった “Lucky・・・”

人生がつまっている。

ジミ-の(Lucky)みたいに、(愛)や(恋)や(男)や(おんな)や
(あか)や(きいろ)や(春)やら(秋)やら(雨)やら(雪)やら、
ひとつでもあんなに大切に扱ったことがあるだろうか?
生きながらにして、天国にとどいているんだよなあ、この人は。
ジミー以上に聴き手に感謝の念を起こさせる歌い手には会ったことがない。