名人・高橋竹山の演奏を聴けてよかった。「岩木」が一番好きだ。
曲の始めにベベン!と鳴らした時、うわぁすごい音だと思ったのが調弦だった。
張り詰めていて、澄んでいて深くて厳しい音。
竹山の人生があの音のような人生だったのだろうと思う。
竹山は明治43年青森県津軽地方平内町小秦生れ。
3才の時にはしかにかかり、ほとんど目が見えなくなった。
15才で戸田重次郎のもとへ弟子入りをして三味線と唄を習う。
当時は皆12、3才で色々なところへ弟子入りしていった。
竹山は、目が見えないから三味線をやるほかなかった。17才で独立。
師匠のもとを離れて一人で北海道、東北地方を三味線を弾いて歩く。
「つらいもんですよ」
雨の日は三味線の皮がはげてしまい弾くことができない。
だから尺八も覚えた。尺八は雨にも強い。
「下手でも吹いていれば音が出てきた」
尺八の演奏「津軽山唄」の音は、ヒィーという何か聴いていたくないような痛い音だ。
昔の人は、少し弾くとうまいじゃないか、かわいそうだからと一銭でもくれた。
戦争中は、なんで戦なのに喜んで三味線なんか弾いているんだと言われた。
「津軽中じょんがら節」はそういう辛い想い出とともにあるものだ。
「寝ていたって弾ける」門つけの旅は満州にまで及んだ。
昭和16年から始まった太平洋戦争。昭和20年8月6日広島に原爆投下。
9日に長崎に8月15日、終戦を知らせる玉音放送。この時代、竹山は34才。
戦争で三味線を続けられなくなり、新しい人生を始めようと盲学校へ入学。
鍼灸師の資格を取るためだった。
この頃、日本の伝統である民謡を保存していこうという運動が高まっていた。
その運動の東北地方代表の一人であり津軽民謡の大御所である成田雲竹に、
ぜひ弾いてくださいと声をかけられ、再び三味線を演奏するようになった。
竹山は成田雲竹野伴奏者として演奏旅行を共にする。
それまで三味線のなかった津軽民謡に三味線を手づけていった。
公演は日本だけにとどまらず、N.Y.やパリにも三味線を弾きに行った。
「津軽じょんがら節」「津軽よされ節」「津軽小原節」は、
合せて「三つものがたり」と呼ばれている。
師匠だった戸田重次郎から教わった。
心に残った「岩木」は、竹山自身がふるさとの自然や人生を思って作った曲だ。
ぼんやりと見えていた視界も暗くなり始めた50才のころだ。
そして、その後完全に視力を失ってしまう。
「目ェ見えなくっても気持ちでわかる。心でわかる」
竹山は少年の頃から夜越山で一人時を過ごすのが好きだった。
山の中で耳を澄ませていると、山の心理が分かる。
夜明け前の3時頃、木々の間から聞えるガサガサいう音は鳥が目を覚ました音。
川でパタパタパタパタいうのは鳥が水浴びしている音。
「黙って鳥の声を聴く。日暮れや夜が明けかかんとする山の雰囲気はいいもんだ」
竹山は演奏会の最後を必ずこの曲でしめくくる。