ビートルズ「レット・イット・ビー」

まずはじめに白状すると、私はビートルズについてあれこれ書けるほど彼のグループを知っているわけじゃあありません。
また、ミもフタもない言い方をしてしまえば、ビートルズにさほどの関心があったわけじゃあないのです。
ただ、「レット・イット・ビー」について書きたくてこれを書いています。
そうはいってももちろん、1960年代以降のポップミュージック、ロック史における最大級の存在であり、以後の音楽観を変えたといっていい偉大なグループであることや、数々のスタンダード化されたヒット曲、そのライフスタイル、ヘアスタイルまでが「大旋風」を巻き起こしたこと、結成から解散に至るまでのバンドとしての「伝説」、解散後の各メンバーの「生きざま」にいたるまで、一通り知らないわけじゃあありません。
それは例えばわが国に「グループ・サウンズ」ブームを巻き起こした60年代、それがそのままロックブームに変化した70年代、シンガーソングライター全盛時代となった80年代以降を通して、わが日本の大衆音楽にも絶大なる影響を及ぼしていることは間違いないと思います。
ビートルズは1962年デビュー、1970年解散、とその実働年数は9年足らず、ところがその間に実に多彩な音楽的変遷をたどっています。
初期の彼らは、チャック・ベリー、リトル・リチャード、エルヴィス・プレスリーバディ・ホリーなどのリズム・アンド・ブルースやロックンロールをルーツとした、「アイドル」的な売りだし方をしたのですが今にして考えれば、彼らにはデビュー当時から際立った特徴がありました。
・いわゆる「作家」の曲を歌わず、自作曲か、当時のスタンダードナンバーを自身でアレンジして歌ったこと。
・それまでの、リードヴォーカル+バックバンド+コーラスグループと言った形態ではなく、演奏、コーラスともに自分たちでこなし、ツインボーカルジョン・レノンポール・マッカートニー)であったこと。
・自作曲の詞の内容が、深遠な真理や成熟した恋愛ではなく「現代を生きる若者の(恋愛を含む)生態や心情そのもの」であったこと。
そのスタイルは若者、特に十代の少女に絶大な共感と賞賛の嵐を巻き起こし、人気はすぐさま英国からアメリカに飛び火して、たちまち世界最大の「スーパーグループ」となっていきます。
しかし、60年代半ばには早くも「売れすぎたグループの世間との軋轢」が顕著に出てきはじめます。
60年代はじめ、港町リバプールハンブルグ(西ドイツ)の小さなライブハウスで細々と数十人の客相手に演奏していた彼らは数年後、世界各国の最大規模のスタジアムや野球場などで主に十代の娘たちの絶叫と怒号に包まれて、自分が出してる音さえ聞こえない状況で、連日連夜演奏することになったのです(この出来事が、モニター・スピーカーをはじめ様々なPA(音響機材)の発達を促したそうです)。
その熱狂は「分別のある大人たち」からは子供たちが発狂した、受け取られかねず、現にアメリカ南部諸州の街では「風紀を乱す」と言う理由で市当局がビートルズのコンサートを中止させたり、「伝統的な礼儀をわきまえぬ無礼者」としてツアー中に国外退去を命じた国さえありました。
結果から見れば当時のビートルズ自身は、同時期に起こった「プロテストフォーク」的な反戦、反社会的な曲は歌わなかったものの、その存在のあり方は「大人的」な既成概念に対する「子供、若者」側からのもっともプログレッシブな「反逆者」であったとも言えるでしょう。
しかし、メンバー自身は上記の様な雰囲気と、人気と反比例するように劣化していくバンドの音楽性に嫌気がさした挙句、日本公演・フィリピン公演の後に行われた、アメリカツアーのサンフランシスコ・キャンドルスティック・パーク(アメリカン・フットボールの球場)でのライヴ(1966年8月29日)を最後に、ビートルズとしてのコンサート活動を停止することになります。
ツアー中は「グルーピー」と称する「追っかけ」が24時間どこにでも出没し、執拗なマスコミの攻勢ともあいまってメンバーは私生活がまったくない状態に陥ってしまっていたのです。
ここでビートルズはひとつの「脱皮」を試みます。
それは、いわゆる「一発録り」が当たり前だった時代に、プロデューサー、ジョージ・マーティンのもと、当時発達してきていた「多重録音」の技術を駆使してスタジオ内で音作りを完結させるという、そのころまだ誰も試みていなかった「レコーディング・アーティスト」への変身です。
オーケストラを始めさまざまな楽器の演奏をマルチレコーダーで重ねることでそれまでにない音の厚みを生み出したり、当時まだ試作段階だったシンセサイザーや、テープの逆回転、高速・遅速回転による「ありえない音」の使用など、斬新な試みを次々と楽曲に取り入れていったのです。
こうして生み出されたアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』によってミュージシャンとしてのビートルズの名声は決定的なものになったといわれています。
ところが、その頂点の向こうに「転がり落ちる崖」が待っていようとは・・・
翌67年、デビュー当初からビートルズを陰で支えてきたマネージャーのブライアン・エプスタインが睡眠薬の多用により死亡。それ以降はバンドとしての求心力やメンバー間の結束が急速に弱まり、やがて解散へと向かっていきます。
そしてその前後からドラッグ、東洋思想、サイケデリックに突入する時代と、その時代のミュージックシーンを(こころならずも?)引っ張っていくことになるのです。
そして、『アビイ・ロード』(1969)、『レット・イット・ビー』(1970・同名の映画のサウンドトラック盤)を最後にビートルズは解散してしまいます。
実際は『レット・イット・ビー』のほうが早く製作されたのですが、同タイトルのシングル「レット・イット・ビー」にはこんな歌詞が・・・
When I find myself in times of trouble,
Mother Mary comes to me,
Speaking words of wisdom, "Let it be."
And in my hour of darkness,
she is standing right in front of me,
Speaking words of wisdom, "Let it be."
僕が悲しみの淵に沈んでいると、
Mother Mary が現れて
叡智の言葉をくださいました「放っておきなさい」
あたりが暗闇に閉ざされると
Mother Maryが目の前に立ち
叡智の言葉をくださいました「そのままでいいのです」
もはや「悟り」の境地、というか、やるべきことはやりつくした、「解散」は必然だ・・・と言わんばかりの心境が垣間見えます。
音楽的にはいわゆる正統派ロックバラードにゴスペル風のアレンジ(byビリー・プレストン)を施してその歌詞の内容に深みを与え、まるで去り行く「ビートルズ(とその時代)」へのレクイエム(鎮魂歌)を奏でているかのようです。
この歌が示すとおり、世界は60年代のベトナム戦争の暗雲を抜けたのもつかの間、「冷戦」という混沌と無秩序が雑居する70年代へと移って行ったのです。
ちなみに、作曲者ポールの母親はメアリー(マリア)といい、作中の「Mother Mary 」とは幼くして死別したこの母の事を指している、と言われることもありますが、ここはやはり「伝統的解釈」として「聖母マリア」であると解釈したいですね。
「Let it be」とは「あるがままに」と訳されていますが、さらに深く読み込めばこの「it」とは「神のご意思、恩寵」と言った意味になります。つまり、
「できる限り精一杯の善行を積もう、何事にもベストを尽くそう。しかし、その結果を判断するのは神であるが故に、人間が口をさしはさむことはできない。マリア様の慈悲の心にすがり、救われることを信じて、今はじたばたせずに結果を待とう」
と言うような意味に取れるわけです。
そうすると面白いのはポールはつまりラテン語で「パウロ」ですから、パウロの母がマリアで、そのバンド仲間がジョン(ヨハネ)とジョージ(サン・ジョルディ)という・・・なんともありがたーいグループだったのです。
アーメン。