私も日本語のコンサートなどではよく取り上げられる曲です。尋常小学校唱歌の中の一曲ですがこの全集の曲はどれも素晴らしく美しい曲ばかりで全く色あせることがありません。中高年からご高齢の方の合唱団の多くはこの尋常小学校唱歌などをベースに歌われることが多いのですが子供の頃の曲を今でも歌いたいと思わせる、ある種のパワーをもった曲ともいえます。
正直、この曲は完全にクラシックの曲というかヨーロッパのにおいがとてもします。前奏の形、レガート感、曲の終始などモーツァルトとシューマンを足して2で割ったような感じです。しかもモーツァルト作曲の「春への憧れ」というドイツ語の歌曲にとてもそっくりなのです。もしモーツァルトが生きていたら盗作騒動がおきるくらいにています。
ということで日本語でありながらとてもヨーロッパ的な曲なので逆に日本語を聞かせるのが難しい曲です。レガートやブレスの訓練と平行して日本語をどう聞かせるかという自分への課題としてもいいかもしれません。(♭Σ)
まず歌の出だしに注目して欲しいのですがmfと記入してあります。メゾフォルテの音量をこの低いラの音でしかも第一声からだすためには充分ににたっぷりと吸われた息とよく下りた喉が必要になってきます。
これができないとただ浅いだけの客席に飛ばない音になってしまうでしょう。19小節からはF(フォルテ)と記入してあります。さらに深い呼吸が要求されることになるので注意して吸気しましょう。
基本的な見解としてこの曲集に収められている早春賦のキーは通常のものよりも低くかいてあります。テノール、ソプラノさんにはきついキーかもしれません。しかしこのぐらいの音はどの声部でも歌えてほしいものです。高音を得意としている方たちは中音域、低音域の充実を目的としてトレーニングしてください。(♭Σ)
この曲は八分の六拍子、つまり、8分音符3つを1つのかたまりとして一拍で数える、二拍感の曲です。常に「①23、②23」の二拍感で歌いましょう。
メロディーはフレーズの始まりがすべてアウフタクトとなっています。フレーズ歌い出しが大きくならないように気をつけましょう。
曲の前半は「春は名のみの風の寒さや」の4小節を1つのまとまりと捉え、クレッシェンドしながら、2小節目の付点4分音符が一番大きくなるように歌い、ディクレッシェンドしながら、さらに3・4小節目ディクレッシェンドと歌います。次の「谷の鶯歌は思えど」も同じように歌います。
曲後半は「時にあらずと声も立てず」の同じ歌詞を2度歌っています。1度目は二小節ずつの(クレッシェンド・ディクレッシェンド)2回をフォルテの強さでしっかりと歌います。2度目は「時にあらずと」(クレッシェンド・ディクレッシェンド)をピアノ:小さめで歌い、「声も立てず」はピアニッシモ:さらに小さく、そして少しずつゆっくりと静かに歌い終わります。(♯μ)
1913年に発表された唱歌です。作詞者の吉丸一昌が、長野県の中学校の校歌を作りに現地を訪れた際の情景を歌った歌詞であり、長野県の大町や安曇野の辺りの早春の寒さや暖かさがもとになっています。歌詞の内容を見ていきましょう。「春は名のみの風の寒さや」=「春とは名ばかりで風の寒いこと」、「谷の鶯歌は思えど」=「谷の鶯が歌おう(鳴こう)と思うのだが」、「時にあらずと声も立てず」=「まだその時ではないと声も立てない」、「氷解け去り葦は角ぐむ」=「氷は解けて消え葦は芽をふくらませる」、「さては時ぞと思うあやにく」=「いよいよその時と思ったがあいにく」、「今日も昨日も雪の空」=「今日も昨日も雪の空模様」、「春と聞かねば知らでありしを」=「春と聞かなければ知らないでいたのに」、「聞けば急かるる胸の思いを」=「聞いたからこそ待ち焦がれてしまう、春を待つ思いを」、「いかにせよとのこの頃か」=「いったいどう晴らせというのか、今日この頃の季節の進み具合を」という内容です。
音楽的な部分を見ていくと、比較的音域が低めですので、低い音を乱雑に出し過ぎないように、丁寧に歌う事を心がけましょう。詩の内容から歌われている情景を感じ取り、穏やかに歌う事を心がけるといいと思います。また、応用編として、曲中に出てくる<>の記号を充分に生かして演奏すると歌いやすくなると思います。(♭Я)