感動した。うなづくことが多かった。
おじいさんになったカザルスが、劇場で演奏する前に言った言葉には、
もう何も言わず拍手を送りたい。彼をいとおしく思った瞬間だった。
かつての国家カタロニアの小さな村サン・サルバドル出身の彼は、
地方出身者らしい知恵、粘り強さ、目的意識、負けん気を奥に秘めた努力の人。
長い間の不幸な結婚の後、年老いてから出会った二人には幸福をもらった。
故カプデビラ夫人と、マルタ未亡人だ。
それまでの彼の音楽が人々に幸せをもたらせたとしたら、
当然与えられるべき至福のとき、安らぎの時間だったろう。
彼の人となりを語る人々の言葉は皆正直で、時折辛辣な批評もある。
しかし、gentleで愛情を含み、思い出しながら幸せそうに
感慨深げに語っていた。ひとかどの大人とはああいうものなのだろう。
その中のひとりがカザルスの音楽についてこう言った。
「彼の音楽はただ完璧に演奏するだけではない。
彼は常に聴衆に何かを訴えてきた。しかし、その音楽は
詩のように純粋で簡潔なスピーチのようだった」と。
彼には才能があった。しかし、それ以上に努力家であった。
幼い頃、始めて弦楽四重奏を聴き、父親にチェロを習いたいと告げた。
父の手作りのヒョウタン・チェロを与えられ、彼がアベマリアを弾くと、
一同は感動した。とりわけ音楽家の父より母の方が彼の才能を見出し、
あちこちに連れてはチャンスを作ってくれた。
バッハのチェロ組曲は難曲だという。
並みの練習量では演奏できる程になれない。
彼はこの曲を長年研究し、発表し、そして成功した。
彼は宝石細工師のようだったという人もいる。
音楽は完全に大きな視点でとらえ、しかし、細かいところも忘れない。
彼自身は言う。自然が好き。
自然にしていれば音楽が要求するものを組み立ててくれると。
祖国の独裁者フランコ総統に反対し、亡命したカザルス。
もうほとんど人生の終りに近い老齢で、若く美しい乙女マルタと出会う。
彼女はチェリストとしての才能もあったし、女優でも他の仕事でも
きっと成功していたであろう程の才能の持ち主だったが、
巨匠と出会ったことで、彼が生涯を閉じるまでの17年間を、
全ての時間を彼に捧げた。
彼女はカザルスの母親と同じプエルトリコ人で顔立ちや髪の色、
雰囲気など、風貌が母親にそっくりであった。おまけに不思議なことに、
マルタの母とカザルスの母は誕生日が同じだったという。
彼の才能を見出した母―当然彼は母を一番尊敬しているし、愛している。
その母と結婚した、と言っても過言ではなかった。
劇場での彼の言葉が忘れられない。
“ Cataluna was a great nation in the world.
I play a short piece of the Catalonian folklore ― Song of the birds ”
「鳥の歌」は、彼が最も愛し、今はスペインの一地方になってしまった
祖国への想いが込められた曲であった。