マービン・ゲイ

これまで、何人かのアメリカンポップスの「スター」たちを取り上げてきて気づいたのは、
1・教会の聖歌隊などからキャリアが始まっている。
2・ベトナム戦争に何らかの影響を受けている。
3・人生半ばで大きな挫折を味わっている。
5・アル中もしくはヤク中である。
4・悲劇的な最後を迎える(かも?)
という、この5つくらいの条件を通っている、ということですね。
で、今回の「マービン・ゲイ」がまたこの5つに見事にはまってるんですわこれが。
マービン・ゲイ(1939-1984アメリカ合衆国 ワシントンD・C出身。
厳格な牧師の息子として生を受け、地元の教会で聖歌隊に参加したことがシンガーとしての第一歩でした。
ドゥーワップ・コーラスグループ「マーキュリーズ」の一員として本格的な活動を開始。その後デトロイトで、モータウンレコードの社長であるベリー・ゴーディ・ジュニアにその才能を見出され、同レーベルでソロシンガーとしてのキャリアを踏み出します。
"I Heard It Through the Grapevine"(「悲しいうわさ」)、"Can I Get a Witness"(「キャン・アイ・ゲット・ア・ウィッネス」)、"How Sweet It Is (To Be Loved By You)"(「ハウ・スウィート・イット・イズ」)などのヒットシングルを生み出した彼は、モータウン所属の歌手の中でも、とりわけ高い人気を誇ることとなりました。
特に1960年代の中期で彼の人気を決定付けたのは、同レーベル所属歌手のタミー・テレルとのデュエット。息の合った二人のデュエットは高い人気を誇り、"Ain't No Mountain High Enough"や"Ain't Nothing Like the Real Thing"などの現在でも愛されつづける曲を数多く世に送り出しています。
ところが、「ベストパートナー」だったタミー・テレルが脳腫瘍で夭折したことがきっかけで、一時期歌手活動を休止してしまいます。
そんな彼がベトナム戦争から復員してきた弟と再会したことをきっかけにまた新たな音楽性をあらわすこととなるのです。
1971年、アルバムWhat's Going On(『ホワッツ・ゴーイン・オン)』を発表。華麗で美しい楽曲と隙のない緻密なアレンジによる音楽性は絶賛を受け、アルバムと共にシングルで発売されたタイトル曲やMercy Mercy Me(「マーシーマーシー・ミー」)も大ヒットを記録。
音楽以上に人々に衝撃を与えたのは、このアルバムが、ベトナム戦争や公害、貧困といった社会問題を取り上げた歌詞と、それに対する苦悩を赤裸々に表現したまったく新しいスタイルにありました。当時、黒人音楽はシングル盤が中心で、いわゆる「歌のうまさ」「味」だけを売りにした作品ばかりだったのが、この作品の出現で一つのテーマ、特に社会情勢などを元にしたアルバムを制作する作品を発表し、なおかつ大ヒットしたことは画期的なことであり、また、マーヴィン自身が「セルフ・プロデュース」という制作体制で望んだことも大きな注目を集めました。
 
何が起こっているんだ?
母親よ、母親
あなた方のあまりにも多くが泣いている
兄弟よ、兄弟よ、兄弟
君たちのあまりにも多くが死んでいく
分かっているだろう 僕たちは見つけなければ
今ここに愛をもたらす方法を・・・
ピケラインとプラカード
蛮行で罰するのはやめてくれ
話をしてくれ
そうすれば分かってもらえる
ああ、何が起こっているんだ
何が起こっているんだ
何が起こっている
何が起こっているかおしえてくれ・・・
 
この訳詩だけを見て、ソウル歌手の歌だとは思わないような社会性に富む、鋭い批判者の姿が浮かび上がってくるようです。
まるでボブ・ディランあたりが歌いそうな内容ですよね。
この動きに触発されたダニー・ハサウェイスティーヴィー・ワンダーカーティス・メイフィールドなどのアーティストが、より自分の才能をいかしたより個人的世界を反映した作家性の高い、意欲的で充実した作品を多く生み出すことになり、ここから「ニューソウル」という新しい音楽が確立されていきます。また、この影響はベイビーフェイスなどの次世代の黒人アーティストにも十分に受け継がれています。
第二の黄金時代を迎えたマーヴィンは、より私小説的な内容の作品を数多く生み出していきます。恋人への愛情と性への欲求を表現したLet's Get It On(『レッツ・ゲット・イット・オン』)、先妻との離婚をテーマにしたHere,My Dear(『離婚伝説』)、孤独と愛への欲求を表したI Want You(『アイ・ウォント・ユー』)などのアルバムが制作・発表されましたが、一方では、先妻との離婚の泥沼や二度目の結婚の失敗、本人の麻薬依存などが原因で私生活は混乱を極め、またあまりに赤裸々な内面告白にもファンはやや食傷気味となり、再び低迷期を迎えることとなります。
一度は破産などのどん底の状態にあったマーヴィンでしたが、彼の才能を惜しむ後援者が積極的に援助に回ってくれたことがきっかけとなり、音楽活動も徐々に彩りをみせ始めます。
1980年のモントルーでのライヴを皮切りに、1982年には移籍したCBSコロムビアよりMidnight Love(『ミッドナイト・ラヴ』)をリリース。シングルカットされたSexual Healing(「セクシャル・ヒーリング」)も全米シングルチャートの3位を記録するヒットとなり、翌年の1983年には当時、飛ぶ鳥をおとす勢いであったマイケル・ジャクソンスティーヴィー・ワンダーを抑え、グラミー賞を受賞するなど健在振りを見せつけました。
しかし、終わりはあっけなくやってきました。
1984年の4月1日、自宅で父親と口論になり、逆上した父親が彼に対して発砲、マーヴィンはそのまま帰らぬ人となったのです。(厳格な牧師だったはずなのに・・・)
皮肉にも、その日は彼の45回目の誕生日の前日にして、マーヴィンがリスペクトしたR&Bシンガー、サム・クックと同じ亡くなり方でもありました。また父親が発砲したその銃は、生前彼がプレゼントしたものだったそうです。
ともかくも、彼によって「ソウルミュージック」は新たな段階に進化した、といえるでしょう。