イギー・ポップ

パンクという言葉はかなり便利で、ヴォーカルがまともに歌えなくてもそれらしい恰好をしていればカテゴライズしてもらえるし、繊細あるいは過激な詩を書けて叫ぶことができれば確実にその世界の住人になれる。人気を集めるためにはもちろん別の才能が必要になるが、パンクの間口の広さと言ったら、それはもうイコール「誰でも入ってこいや」なのだから、むしろ聞こえのいいフォークなんかよりも人間愛に満ちている。ただ、逆を言えばそれだけ粗製濫造が目立つし、甘えたアマチュアでも肩で風を切れる世界である。結果、良い声の歌い手が少ないのだ。
そこへいくと、クラシックでも歌えそうな声をしていながら、「パンクの神」として君臨し続けたイギー・ポップはやはり稀有な存在である。一度体験しておいた方がいい。体を切り刻んだり、ガラスの破片に飛び込んで全身血だらけで歌ったりと、その異様な行動ばかりを注目されがちな元祖パンクスターであるが、それは彼の中の有り余るエネルギーが、歌謡という形式を飛び越えてあたりを暴風に巻き込んでいるだけなのだ、と好意的に考えておきたい。そうしたことを抜きにしても、彼のライブ盤は耳を惹き付けて離さないし、いい意味で小さな暴風をいまだに送り込んでくれる。パッとしない日、力が欲しい日は、イギー・ポップの『Raw Power』あたりを少しデカめにぶっ放せば、リズムと力が生まれることは間違いない。
この人は本当に声がいい。脂っ気のある肉を毎日食べているような声だ。それでいて体には贅肉ひとつない。ギリシャ彫刻のような身体をしている。もっとも彼の場合は、ステージですぐに脱ぐので、そのためにも贅肉を付けることが許されないのであろう。
イギーは六十年代からすでに「パンクの神」として崇められていた。パンクと言えば誰もが思い浮かべるのがセックス・ピストルズやクラッシュなどのUKシーンだが、あれはニューヨーク・ドールズのマネージャーだったマルコム・マクラレンのプロデュースから始まったことで、本家はやはりニューヨーク、しかもそのほとばしりの根幹にいるのがイギーなのだ。パンクはイギー・ポップから始まった。そう言い切って差し支えないと思う。
イギーはドラッグ中毒で何度も入院している。その度に手を差し伸べたのがデビッド・ボウイで、これは詳細に追っていくと、ボウイの人間的な寛さというものに感動を禁じ得ない種々のエピソードに出くわす。このあたりに関してはいつかまた別の機会に書きたいと思うが、普通の人間ならイギーを射殺してもおかしくないような状態で、ボウイは常に身を投げだす。バイセクシャルかどうかはともかく、この「パンクの神」を立ち直らせるためにデビッド・ボウイが取った行動は、自身を裏切った弟子たちに対してさえも愛を惜しまなかったキリストを彷彿とさせるものだ。
さて、イギーがかつて暴れ回ったマンハッタン。パンクの殿堂と言われたCBGBは小金欲しさにおじさんのカラオケ大会などをやるようになり閉鎖。イギー出演のライブハウスとしてまだ残っているのはイースト・ヴィレッジのコンチネンタルぐらいだろうか。ここは昔の新宿ロフトを半分にした程度の小さな小屋である。
ボクはこのコンチネンタルで何度かライブをやったことがあるのだが、トイレのドアも便座もすべて破壊されている、ということよりも、いまだ構造としてモニターがついていない、というのがシ
ョックだった。客席に向けてのスピーカーの出音しか頼りになるものがないのだ。だからいつも気付けば、ステージの縁ぎりぎりまで出ていって、モアーンと渦巻く爆音の中でバランスを取ろうとしていた。
こんな歌いにくいライブハウス、日本では考えられない。しかしここがまさにイギー・ポップを生んだ聖なる店であり、ニューヨークパンクがぎしぎし鍛えられた場所なのだ。店の壁には今でも若きイギーの写真が貼ってある。
で、思ったことがあった。
ステージの突端まで出ないと自分の声さえ聞こえないライブハウス。代々のパンク歌手もみんなこうやって歌ったのだろうなと。一歩踏み出せば客の頭上である。ああ、これは踏み出したくなるわと。
客席に飛び込むパンク特有のアクションはつまり、モニターがないことにことの発端があったのである。