日本の歌手について(2)

晦日に家族そろって「NHK紅白歌合戦」を見なくなってどれくらいたつでしょう。
歌はむかし、世代間を越えて愛されるものだったのです。
時代が進み、音楽が、歌が個人単位のものとなってしまったいま、作品はどうしても小粒にならざるを得ません。
「フォーク」の時代においては「歌手」に求められたものは、「パワー」「カリスマ性」であったのでしょう。
「ニューミュージック」の時代には「音楽性」や「テクニック」が重視された。
そして今求められていることはおそらく「スピード」と「センス」、いわゆるちょっとした、「これ好き」「これ嫌い」という感覚(よく「匂い」なんていいます)ではないかと思われます。
これは、とても世代色の強い感覚で、そのために異なった世代では共有しにくい感覚であるように感じます。
最近、洋楽の大ヒットが(日本において)見られなくなったのはこれも原因の一つであると思います。(「匂い」が違うんですかね、微妙に)
どのへんからそうなったか、というとやはり「バブル」以降ではないかと思われます。
マイケル・ジャクソンとかがあんまりかからなくなった頃から、だと思います。
現在は「カバー・ブーム」だそうです。
日本の過去のヒット曲を、キーやアレンジを変えて別の歌手で録音する。
その代表は徳永英明の「VOCALIST」シリーズ。推定累計300万枚以上の大ヒットであるといわれています。
興味深いのは、音楽業界の場合、他の業界と逆で、「グローバル化」ではなく「ドメスティック化」してきていることです。
スポーツ界などは、プロ野球の選手がメジャーリーグで活躍し、Jリーグからヨーロッパのリーグに出て活躍する選手は少なくありません。
まして、一般的な産業界は円高不況で生産拠点を海外に移す動きが加速しています。
それなのに、音楽、なかんずくポップス音楽はどんどん「内向き」「後ろ向き」になるばかりのような気がします。
ポップスの「ガラパゴス現象」が起こっているのですね。
何でこんな陰気なことを書くか、というと、実は「フォーク」の時代のもっと前、1950年代、60年代にはむしろ音楽はもっと「グローバル」だったからです。
前にも書きましたが、ジャズ歌手、梅木美代志(1929-2007)は1955年(昭和30年)に渡米し、「ナンシー梅木」としてレコードデビュー。
のちにハリウッドに進出して57年のアカデミー賞助演女優賞アメリカ人・イギリス人以外で初めて受賞しています。
また坂本九(1941-1985)は1961年(昭和36年)に「スキヤキ(上を向いて歩こう)」をリリース、のちに「ビルボード」で3週連続1位を獲得したのです。
これは当時としては非常にセンセーショナルなことで、実はアメリカの音楽界はとてもユニオン(組合)の規制が厳しく、非アメリカ人のアメリカでの音楽活動に関してはかなり排他的だそうです。
坂本とほぼ同じ頃ビートルズがはじめて全米公演を行ったとき、各地で反対運動が巻き起こり、暴動寸前にまでなったこともあるとか。
そのような時代に、東洋の、しかも「元敵性国家」(太平洋戦争からまだ十数年しかたっていません)「敗戦国」の歌手が外国語(日本語)で歌う歌がヒットチャートのトップに君臨したのです。
これはもう「奇跡」としか言いようがありません。
調べてみると、「ビルボード」において1位になった楽曲で、非英語の曲は極端に少なく、これ以前には1958にドメニコ・モドゥーニョの「ボラーレ」(イタリア語)がただ一曲あるだけなのです。
この輝かしい記録を継ぐものは残念ながらその後日本には現れていません。
ちなみに「スキヤキ(上を向いて歩こう)」は作詞・永六輔、作曲・中村八大、歌・坂本九、という「六・八・九」のトリオによって生み出されたものでありました。
涙がこぼれないように
思い出す春の日
一人ぼっちの夜・・・」
この「上を向いて」の箇所、坂本九
「うぅーえぇーをぉむうぅーいてぇ、あーるこぅうぉうぉうぉー」
みたいな独特の節回しで歌っています。
一説にはこの歌い方、実は坂本の母親が長唄の師匠をしており、彼は幼い頃からその影響を受けていたことが元であるともいわれます。
事実ならばまさに、あの「歌声」は「純日本製」であったということになるのでしょう。
洋楽をベースとしながらも単に外国の「サルマネ」にとどまらず、自らの独自性とうまく組み合わせる。まさに後の「メイド・イン・ジャパン」のさきがけとなるような快挙だったといえるでしょう。
もうあのような世界的大ヒットは日本からは二度と生まれないのでしょうか。
僕は思うのですが、音楽にしろ、映画にしろ、世界に通用する「本物」というのは、逆に国がある程度貧乏なときじゃないと生まれないのかもしれない。
その意味で日本は今、まだまだ「豊かで幸せ」なのかもしれませんが・・・