美空ひばり

 初めてコロムビア本社に行ったのは契約する前だったと思います。
 当時は赤坂に自社ビルを持ち、「ポップスから演歌まで(演歌からポップスまでか?)」幅広い制作ジャンルをカバーする日本最古のレコード会社である、と言うくらいしか知識がなかったのですが、会社に行ってみて最も印象に残ったのが正面玄関ロビーに飾られていた美空ひばりさんの大きなポスターでした。
 美空ひばりさんは1989年に亡くなられているので、その時点ではもうお会いすることは出来なかったのですが、その堂々とした大きなポスターは、世を去ってなお、この会社を見守る守護神のような圧倒的な存在感をいだかせるものでした。
 バイオグラフィによれば、1937年(昭和12年)5月29日 - 1989年(平成元年)6月24日ということで、亡くなられたとき満52歳であったと言うことが信じられないくらい、終戦直後から昭和のおわりまで、数々のヒット曲を歌い、また銀幕スターとして多数の映画に出演されました。まさに昭和の歌謡界を代表する歌手であるといえるでしょう。
 そのカバーするジャンルは、ブギウギから始まり、ジャズ、ポップス、ラテン、クラシックにいたる洋楽と、民謡、浪曲、小唄などの和物の両方にまたがり、そのどれもが「美空ひばり」としか言いようのない表現の豊かさ、自在さを感じさせるものばかりです。
ここで私はなにも演歌・歌謡曲を加えるのを忘れたわけではありません。一般的に誤解があると思うのですが、美空ひばりさんはいわゆる「演歌歌手」ではありません。
 そうではなく、彼女が歩んできたキャリアの中から、「演歌」とか「歌謡曲」とかのジャンルが生まれてきた、いえるのです。
むしろそのスタートは今で言う「アイドル」であり、長じてはジャズ、スタンダードなどにも素晴らしいレコードを残しています。
美空ひばり ジャズ&スタンダード」(日本コロムビア)というCDを聞けばその片鱗がうかがえます。
 特に、3曲目の「上海」と言う曲などは、おそらく昭和20年代の録音と思われ、バチバチバチッ・・・というレコード針の音がそのまま入っているところをみると、マスターテープではなく、SP盤からそのままCD化したのでしょうが、アイドル時代の彼女の声が聞ける、貴重なテイクです。
 驚くべきは彼女、10代から「美空ひばり」なんですねぇ。
つまり、あの声なりヴォーカルスタイルは大人になって身につけたとか、誰かに教わった、と言うようなものではなく、はじめから「完成品」だったのです。
 そしてこのCDでは何曲か英語で歌っているのですが、発音といい、リズム感といい、もし彼女がこのままアメリカでデビューしていたら、日本の大衆音楽は違った歴史を歩んでいたかもしれない、と空想が広がります。
 実例として、同世代のジャズ歌手、梅木美代志は1955年(昭和30年)に渡米し、ナンシー梅木としてレコードデビュー。映画界に進出して57年のアカデミー賞助演女優賞アメリカ人・イギリス人以外で初めて受賞しています。
 また1961年(昭和36年)には坂本九が「スキヤキ(上を向いて歩こう)」をリリース、のちに「ビルボード」で3週連続1位を獲得しています。
当時、「世界」は彼女のすぐそばにあったのです。
 彼女を取り巻くさまざまな状況が海外進出を許さず、その後演歌・歌謡曲の女王としてのキャリアを重ねてゆくことになるのですが、その天性の声とリズム感は「ワールドクラス」であったことを充分に証明していると思います。
 ピアニスト・中村紘子はエッセイで、彼女の声を「ヴィオラのような」と表現しています。
 「バイオリン」ではなく「ヴィオラ」。彼女の低音の響きの美しさを称えた表現だと思います。
 「ジャズ&スタンダード」の9曲目、「スターダスト」のバース(歌い出し)のあたりに、その「響き」を感じます。
 指揮者・岩城宏之は、外国人演奏家たちに日本のレコード(演歌からポップスまで)を聞かせるのが趣味だったそうですが、彼らはほとんどの曲を「洋楽の模倣」だ、「歌唱法が稚拙だ」と、クソミソにけなして、てんで問題にしないので、頭に来て「奥の手」として美空ひばり「柔」をかけたところ、全員が「シ~ン」と静まり返り、絶賛の嵐に変わった、ザマアミロ!だったと書いています。
 近年、日本の音楽は国内のマーケットに閉じこもり、世代間ごとに分類されたような曲ばかりがリリースされているようですが、昭和の時代、世界を視野に入れておかしくない実力を持ち、また言葉や人種の壁を越えて実際にそれを証明した人々がいたことを忘れないでいたいものです。
 美空ひばりさん、亡くなってもうすぐ21年。
今なお「日本最高の歌手」である、と断言します。