歌をやりたいという以前に、一人の人間として立ちたかった。
男とか女とかそんな枠で考えるのではなく、
一人の人間として自分にしかできない表現をしたかった。
自分の考えを、自分の声と言葉で言いたかった。
そんな思いを、彼女をみて思い出した。
マレーネ・ディートリッヒのステージは本当にシンプルだ。
彼女だけがそこに立ち、語り、歌っている。
それで成り立っているし、観客も喜んでいる。
観客は総立ちしたりしないし、興奮を表わしたりはしないけど、
皆が本物は何かということを知っているようだった。
こういうステージをみてしまうと、日本人はどんな文化をつくってきたのだろうと
考えてしまう。世界がこんなに近くなっても、よいものがなかなか入ってこない。
メディアをつくっている人たちは、よいものを本物を知っているのだろうか。
やはり自分の足で探さなければよいものはみつからないのだろうか。
なんだかとてもうらやましくなった。本物を支える層の厚さに。
どうにかしてこの日本も、そういう大人のたくさんいる国にしていきたいと思う。
それには自分の力をつけるしか道はない。
彼女の表現、声は彼女のものだ。決してハッとさせられる声ではないのだけれど、
話し方や表情が声と合っていて、聴いていて心地がいい。
派手な動きなんて全然ないのだけれど、
ちょっとした目の動きやジェスチャーにひきつけられる。
そして、とてもしっかりとした声を出している。
その声に感情をこめ自由自在に語っていた。
歌っているようには聞こえなかった。すべての歌が語られていた。
一流の人の歌を聴いていると、日本人が歌っているような歌い方をしている人は
いない。声を聴いていると、いつの間にか曲が消えていってしまう。
そして、語りかけられているような感じになる。
深い息に支えられた声で言葉をいっているだけなんだと思う。
彼女のすごいところは、一つひとつの歌にすぐ入っていけるということ。
悲しい歌、喜びの歌、嘆きの歌といろいろあるが、
彼女自身、その歌の世界に入りこんでいく。観客もその世界にひきこまれていく。
飽きさせない、ひきつけられるものがそこにある。
存在感のある人だ。(K)