演歌・歌謡曲

最近どうも洋楽に偏りすぎではないか、と思っていたので、今回は日本の、しかも演歌・歌謡曲から取り上げたいのですが、さて最近の演歌・歌謡曲からは「ヒット曲」と呼べるものはあんまり出ていません。(あ、あったらごめんなさい。あくまで主観です)
要するに演歌・歌謡曲はもうダメなのか…これ、20年以上前から言われ続けてきたことなんですが、どういたしまして、ここ十年くらいの統計では、CD売り上げにおける演歌・歌謡曲部門の割合はむしろ盛り返しつつあるそうなのです。
氷川きよしなど、チャート・イン(しかもアルバム部門!)をはたす存在も現れています。
これは、よく言われるように若い年齢層の音楽離れ(というか、CDばなれ)が進み、彼らが主に聞く「j-pop部門」が落ち込んだのと裏腹に、根強い演歌・歌謡曲が相対的に上がったに過ぎない、というだけのことなのでしょうか。
むろん、それは大きいとしても、ではなぜ演歌・歌謡曲が「根強い」のかの説明にはなりませんね。
私見を述べれば、やはり演歌・歌謡曲には、現在のヒット曲にはない「何か」があるのでしょう。
「何か」って何でしょう?う~ん、これは一言では難しいのですが、やはり演歌・歌謡曲の持つ独特の「苦み」と「臭み」じゃないかと思うのですよ。
この場合、「苦み」は主に歌詞、「臭み」は主にメロディに関係します。
歌詞における「苦み」とは、すなわち「不達成感」のことです。
いわゆる「演歌」の発生と流行は、戦後すぐ、というよりむしろ1960年代~70年代の「高度経済成長期」であったことがそのヒントです。(1940~50年代はむしろ、いわゆる進駐軍仕込みのジャズやブギウギなどが幅を利かせていました)
これはつまり、今の中国のように「倍々ゲーム」で経済成長していたころ(高度成長期)に、時流に乗って富を築きあげていった一部の成功者はともかくとして、「取り残された側」の多くの
人々の心にはやりきれない思い、ルサンチマンとでもいうべき感情が積もってい他のだと思います。
彼らの心を癒すのは、おしゃれな洋楽でもなければ、高尚で難解な能楽雅楽などの伝統芸能でもない。
「自分と同じ境遇の人がいる、同じ思いを共有できる人がいる」という親近感だったのです。
お酒はぬる目の 燗(かん)がいい
肴(さかな)はアブった イカでいい
女は無口なひとがいい
灯りがぼんやり 燈りゃいい  (八代亜紀舟歌」)
 
そこにはただ、暗い酒場の片隅で安酒とともに辛かった「昨日まで」を飲み下す「自分」がいる。
 
しみじみ呑めば しみじみと
想い出だけが 行き過ぎる
 
そう、過去とは忘れるのではなく、お酒とともに「呑み下す」ものなのです。
これが「苦み」です。
 
メロディの「臭み」というのは、要するにさきほどの「親近感」に関係があります。
いわゆる「四・七(ヨナ)抜き音階」で作られた、代わり映えのしないメロディ・パターンが多いのですが、これは我々日本人が民謡や浪曲浄瑠璃などの大衆伝統芸や邦楽で長い間親しんで来た「和音階」に基づくものです。いわば日本人の心のふるさと、「ルーツ」につながるものといえるでしょう。
ワンパターンといえば確かにそうなのでしょうが、逆に言えばどのような「演歌的世界感」をも調理可能な「万能ソース」なわけですよ。「味噌・醤油・カツオだし」の味なわけで、いわば日本人の「ソウル・フード」なわけです。
若い時期は「好き・嫌い」というより、身近にありすぎた「近親憎悪」的感覚から、「ルーツ(故郷)」からは離れていたいものです。ある種の「巣別れ」「親離れ」本能と関係するのかもしれませんね。
このことは、若い時期はあまりに味噌や醤油がキツい食べ物を好まず、ハンバーガー・フライドチキン・ピザにいってしまう傾向と似ています。
しかし、そうした「若者たち」だって、いつまでも若者ではいられません。20年経てば20代の若者は立派な40代のおじさん、おばさんになっているわけです、当然。
そろそろ油やスパイスのきつい洋風料理より、あっさり和食で…という感じで一部の人々が「ルーツ」に、「ソウル・フード」に帰っていこうとするのは極く自然な現象だと思います。
つまり、ここに来て先ほど述べたような「ゆるやかな逆転現象」が起こっているのかもしれません。
流行り廃りの多い「洋食業界」とは違い、安定感のある「スタンダード」な味、というわけです。
「50過ぎたら演歌だよ」と、昔はよく言われていましたが、果たして今もそうなのか、興味深く見ていきたいテーマですね。