ミルバ 「Da Troppo Tempo(愛遥かに 1973)」

芸術性を重視するイタリアの歌い手の1973年の曲。
熱く大きく強くありながら、彼女の歌の中にある冷静さを思っていた。
1930年代終わりに生まれ、イタリアの独裁政権の下で、人々は苦しく貧しい生活を送っていた。過酷な激動の時代の中で様々な出来事を子供時代みてきたのだろう。威厳のある意識の強さ、鋭さを血の中に流れる長い西洋の歴史と共に歌から感じられる。
彼女の歌は、ダヴィンチ、ミケランジェロをはじめ、ルネサンス時代のイタリアを始めとする西洋の古典美術の巨匠たち、職人たちの作品を想わせる。そこには、非常に厳しい、完璧を目指す、徹底した姿がある。ラインひとつをとっても、見えない世界に対して、まるで写実画のような正確さを追い求めていく。緻密なラインと濃厚な色合いを求め、何万回もデッサンを繰り返してきたことが感じられる。また、たっぷりとなめらかな息と身体の使いは声楽的でもあると思われる。最高の芸術を求め、曲を深く把握していく。無限な作業の中でひとつひとつの作品はより大きくなっていく。そういった彼女の姿勢は、数年で起きたことではなく、血の中にあり、幼き頃から、あらゆる完成度の高い芸術に鋭く反応をしてきたのではないかと思う。
曲のAパートは、男と別れ、喪失感の中、長い間、無気力なまま暗い気持の中、一人語りだす姿を映す。こういった状況を描くバランスは本当に難しく、仰々しく押しつけがましくなってはならないし、弱すぎても伝わらないだろう。
そして歌の出だし、静寂の中、声から始まるスタートがものすごく重要である。このDa troppo tempo mi trasculo
をどう始めるか、確立したイメージをもち、声を出す前から、すでに静寂により、ストーリーは始まっている。このパートのマイナー調のメロディの主要な音をみていくだけでも、下降する力の強い、なんとも物悲しい重たく暗い空気が流れている。そこに半音の効果がこの曲の独特の雰囲気を与え、語られている。
ミルバは細かい部分を徹底して把握し、空間へ、離さず、はぐれず、緻密に、このイメージをスケールが小さくなることなく、巧みに絶妙なバランスで動かし描いていく。低音が特に魅力であり、芯があり、よく通り、ヴォリュームをのびやかに扱うことのできる品のある声。ラインが全くぶれず、フレーズの半音の魅力や語尾の跳躍のところまで途切れず華麗に描く。Da
troppo tempo~questo siまでだけでも、すでに深い色合いと丁寧なコントラストをつける。Questo si, anch io diessere cosi
など低音をしっかり出し、上に少し上がる語尾の独特なニュアンスの入れ方、そして次のフレーズの頭へとつながりの繊細な巧みさ。一定した流れにゆったりと構えながら、練りに練ったイメージの中でフレーズの間の取り方ができ、ブレス、そして自身の声がどう動かすとどのようにいくかということも、長い経験の中で、細かく熟知している。Ormainon esco quasi piu(もうどうにもならない)とAパートの中で高い波が来るところも、突っ込まずぶつけずに、丁寧につなげ、最後のフレーズquelloseituの置き方、ニュアンスも、いろんなやり方があると思うが、(すべてに気力を失ったのは)あなたのせいと言いたい歌詞の最後のところまで、前後の成り立ちをとらえて、あえてそれまでより抑え絞りながら、弱り切った心情を音に巧みに添えていく。このような一瞬のこだわりの中にも、イメージを何度も描き、聞き手へ、愛の悲しみを、ぶつけてみるのではなく、丁寧に心地よく与える。エネルギーをべた塗りすることなく、巧みにコントラストをつくっていく。高揚感あふれるサビへもっていくまでに、どう細部の細部まで描いていくか、鋭いセンスとバランス感覚、また論理的で、完璧を目指す高い理想を持つ姿勢、その重要性がみえてくる。再びDatroppo..と入り、今度はより詳しく心情は語られ、だんだん失った相手へ向けて語られているように、ミリのミリでじわりじわりとサビへ向けて動かしていく。
サビに入り、符割りはいっきに伸びやかになる。下降してきたメロディを否定するかのように、押し切るように、上へと向かう力が起きだし、跳躍を繰り返し、激しく、ドラマチックになっていく。Io
Vorrei ~とひとつひとつの跳躍の波、フレーズを美しく仕上げ、華麗につなげ、最高音がくるsi esaurisce do po~banaleまでスケールを大きく、どんどんエネルギーを放出していく。そしてクライマックスにさしかかりながら、ed invece io~ともう一度跳躍を繰り返すメロディをより深く彩っていく。その部分の入り、直前の激しく大きく波が入るところ、崩れず安定した声で操る巧みさに、そのイメージを完璧に描くための徹底した体と呼吸の使い、支えを改めて思う。二度目の波は、より濃く大きく燃えていた火が徐々に弱くなっていくように、メロディは下降する力に引き戻されていく。この部分のエネルギー配分も自然であり、熱とラインが途切れることもなく、がたつきや隙も一切感じられず次へのパートへ続ける。再びDatroppoとAパートのようなメロディとなるが、まだ熱く、小さくなった火は、消えずに燃えている。“もう一度、戻ってきてほしい”と願うこのブロックも、また深く丁寧に仕上げている。そしてエンディングとなる、ラストのブロック、“ずっと一人このままなんて、、、去るしかないのね、、、”と自身への問いかけるような心情をつづりながら終えていく。特に最後の一言emeglio(忘れることに対してその方が)いいのね、、、と余韻を残すように、はっきり言い切らず流すことで、より聞き手の記憶に刻む。
この最後の2つのブロックを仕上げるのも、どこまでも徹底したイメージがなくてはもたずに力尽き、最後の最後まで描き切ることができず、聴き手の心に残らなくなってしまう。
ヴォイスレコーダーなどない時代の中で、常に生の声、生の演奏、生の人々の前に、瞬間的に描いてきた。歌い手として本当に才能がある人しかプロとして立つことはなかった。クオリティをとことん追い求める厳しいベテランの姿勢は、集中力とスタミナを養い、より大きく、より強くなっていった。偉大な芸術家たちがそうであってきたように、尋常ではないほどの努力が長い年月の中そこに費やされている。