長谷川きよし

 長谷川きよしを聴く度に、まだまだ自分もやれるのではないかという人間としての基本的な希望と、やはり持って生まれた才能が表現の種類を左右するのであり、才能がない者はどうしようもないのだという、人間としての基本的な絶望、この二つを一度に感じてしまう。
 まず、希望の方。長谷川きよしが与えてくれる希望。それは、人は魂をもって表現するのだという一番熱い部分での再確認だ。ご存知の通り、長谷川きよし全盲だ。で、長髪な上、ミッシェル・ポルナレフみたいなサングラスをかけている。一風変わった空気感がある。だがしかし、いったんギターをかき鳴らし、あの芯の太い甘い声を確信犯的にのせて行く時、誰もがそこに稀有な情熱をもった突出した歌い手を見るし、同時に励まされもする。技量のなかにしっかりと、長谷川きよしの心を感じられるからだ。
 やっぱり、心って大事なんだよな。心を込めて日々歌っていれば、こんなふうに昇華できるのかもしれない。そんなふうに思えるから、長谷川きよしは希望だ。
 では、絶望は何かと言うと、まずあの速弾きのガットギターである。普通、速弾きというとヘヴィーメタル系のバンドが頭に浮かぶもので、そこに出てくるのはストラトキャスターフライングVみたいなギターであって、あんまりああいうイエペスが弾いていそうなガットギターではない。だが、長谷川きよしは実に自在にガットギターを操り、伴奏というよりは攻撃の一手として弦を叩くように弾く。私のようにコードストロークとごく簡単なアルペジオしかできない人間には、ネック幅の太いガットギターをあのように激しく弾きながら、なおかつまったく乱れずに甘く歌えるという技量は、もうまったく雲上のものでしかない。努力してどう、というレベルにはとうてい思えないのだ。
 それはもちろん、長谷川きよしはそんなふうに言われたら怒るだろう。なんといっても彼は全盲である。どれだけの苦労があった人生であるか、闇のなかにどれだけの涙をこぼしてきたのか、これはもう本人だけが知り得る世界であろう。そこを乗り越えてきたのは努力以外の何物でもないはずだ。
 しかし、子供の頃からクラシックギターを始め、少年期からシャンソンを歌い始めた彼にとって、頼るものが耳しかなかったという現実は、目が見える私たちより遥かに豊かな環境であったとも言えるのではないか。長谷川きよしにとって、世界と結ばれるのは音という手段だけなのだ。そこで努力を積み重ねた人が、なまじ目が見えている私たちと同じレベルにいるはずがない。初代高橋竹山しかり、近付ける領域にいる人ではない。希望とともに絶望も感じるというのはそういう意味だ。
 ただ、ガットギターの方の真似は無理でも、歌の方は聴く度に勉強になる。歌謡曲でもロックでもなく、シャンソンから歌を始めた人生であるから、詩に対する尊敬、というものが長谷川きよしの歌唱からは感じられる。
 長谷川きよしはデビュー四十年を越えた。一番新しいアルバムは「40年。まだこれがベストではない。長谷川きよしライブ・レコーディング」というタイトルで、やはりこの命名も、それからもちろんこのアルバムの音も、やはり希望と絶望の双方を聴く者の皿に並べてくれる。ならば聴かない方が心静かに暮らせるのかというと、それはもう絶対に聴いた方がいい。希望と絶望の混濁こそ、体験として美しいからだ。